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2009年11月号より

1978年度生 岡田光世

(私)青山学院高等部よりWisconsin州に留学
青山学院大学在学中、協定校Ohio Wesleyan Universityに1年間、準国費交換留学
ニューヨーク大学大学院文学研究科英米文学専攻Creative Writing(創作)で修士号取得
読売新聞米現地紙記者を経て、作家、エッセイスト

私は長年、ニューヨークに住み、アメリカの文化や社会について英語で取材し、新聞・雑誌に記事を書き、岩波新書や英語を交えたエッセイ集などを出版してきました。IFの留学体験がいかに私に大きな影響を与えたかを語る前に、少し長くなりますが、拙著の引用をいくつか紹介させてください。

私は海外子女としてではなく留学生として、一年間ウィスコンシン州にある小さな田舎町の高校で学んだ。アメリカにあこがれをもってやってきた。しかし、そこで私がまず直面したのは、疎外感、挫折感、自己嫌悪、劣等感だった。(中略)英語が雑音としてしか聞こえない教室で、こぼれる涙をふきながら誰にもわからない日本語で日本の友だちに手紙を書いた。宿題を完璧にやらなければと、毎晩、辞書を引き引き、二時、三時まで勉強。睡眠不足で頭痛はひどく、食欲はなく、ノイローゼになりそうだった。日本に帰るまで、あと二百八十二日、二百八十一日・・・・・・と、指折り数えて待つ日々が続いた。 

それから、一年。「もう、離陸しますよ」。そう急き立てられるまで、私は日本に帰る飛行機に乗れなかった。見送りに来てくれた何十人ものスクールメートやホストファミリーの人たちは、機中の人となった私に手を振り続けていた。彼らに手を振り返す私の姿はもう見えなかったのに。中継地のミネアポリスに着いても泣き止まなかった私に、隣に座っていたアメリカ人が、「第二の故郷ができたんだね」と微笑んだ。 『ニューヨーク日本人教育事情』(岩波新書、1993年)「あとがき」より

ウィスコンシン州に入ると、緑が広がる牧場に納屋やサイロが点在し、何十頭もの牛が草を食み、寝そべっている。牧草や家畜、肥料の混じった匂いに、あの頃の懐かしい日々がよみがえる。(中略)家のあるフランクリン通りを進むと、ダッドの車の前で数人が立ち話しているのが見えた。懐かしいダッド、友人のマリー・ジョー、彼女の父親のジョージの姿も見えてきた。何時に着くか、正確な時間を伝えてあったわけでもないのに、私たちがやってくるのを外で待っていてくれたのだ。(中略)車から降りると、私はまず、ダッドとマリー・ジョーと抱き合った。ジョージは、私を強く抱きしめて、頬ずりした。そして、私の体を少し離して、じっと目を見つめながら、言った。

Welcome home, Mitz.おかえり、ミッツ。よく帰ってきた。ここは君の故郷だからな。映画館も書店もしゃれたレストランも何もないけれど、そう言って迎えてくれる人たちがいる。私は故郷に帰ってきた。『ニューヨークの魔法のことば』(文春文庫、2010年1月刊行予定)「故郷」より

英語力はもちろんですが、まだ心が柔軟な高校時代に異文化の中で生活した体験は、私の人生最大の宝となりました。異なる価値観を持つ相手を対等の人間として受け入れ、尊重し、思いやる。それは物書きとしてだけでなく、人が社会で生きていくうえで、最も大切なことかもしれません。親子や夫婦、友人同士の関係も同じです。

振り返ってみると、ひとりの日本人という“マイノリティの側”に立ってアメリカで暮らしたことが、その後の私に何よりも大きな影響を与えました。異言語・異文化の世界で、それまで経験したことのない疎外感や挫折感も味わいました。日本ではマジョリティだった人間が、マイノリティになって初めて見えてくるものがたくさんあります。それまであまり意識することはなかったけれど、日本にも、障害者、ゲイ(同性愛者)、ホームレスなど、さまざまなマイノリティの人たちがいることに改めて気づきます。

IFで留学したからといって、将来、海外で“活躍”する人ばかりではありません。その後、日本で英語や国際社会とはあまり縁のない生活をしている人ももちろんいます。日本にいても、とかく異質なものを排除しがちなこの国で、他者へのやさしさをつねに意識して暮らすことができたら、それは素晴らしいことです。それこそ、国際化の精神につながるものではないでしょうか。自分とは異なる相手を受け入れ、尊重することは、容易いようで難しいものです。 日本で私は、躾に厳しい保守的な家庭に育ち、学校でもすべてをこなそうとしましたから、つねに「こうであらねばならない」という強い固定観念に縛られていた気がします。アメリカでは心が自由でした。私は私でいいのだ、と強く感じました。相手だけでなく、自分をそのまま受け入れることも、学んだのです。

文化や宗教、価値観は違っても、人の本質そのものは世界どこでもそれほど変わりはなく、人は皆、不完全で愛おしい存在である、と思えるようになったのも、あの1年があったからでしょう。

海外子女の教育現場をルポした『ニューヨーク日本人教育事情』や、多様な家族の形を紹介した『アメリカの家族』は、留学時の疎外感や挫折感、マイノリティの立場からものを見る体験がなければ、あれほど取材対象に共感できなかっただろうと思います。 『ニューヨークの魔法』シリーズ3冊(文春文庫)は、ニューヨークで出会った人々とのちょっとしたやりとりや触れ合いを綴ったエッセイ集ですが、IF留学時代の話もいくつかあります。

拙著について新聞や雑誌の書評で、「人への眼差しが温かい」「著者は人間が好きなのだ」などとよく指摘されますが、それが本当だとすれば、原点は高校留学にあるといえるでしょう。

学問の習得が目的である大学や大学院での留学とは異なり、IFでは高校生という多感な時期に、アメリカ人の家族の一員となり、学校や教会、地域活動など、コミュニティにどっぷり浸って生活します。

留学当初、宿題をこなすために、毎晩、明け方近くまで勉強して体調を壊していた私は、ホストファーザーに、「君は何のために、アメリカに来たんだ?」と聞かれ、はっとしました。

机に向かってする勉強は、日本でもできる。そう気づいた私は、スポーツを、地域活動を、毎週末のパーティを、友人や家族との会話を、思い切り、楽しむことにしました。私はその後、大学でも大学院でも留学しましたが、アメリカを丸ごと体験したと実感できたのは、高校時代だけです。

高校卒業30周年の同窓会に出席するために、今年の夏、再びウィスコンシン州に帰りました。先に拙著から引用したあの時とまったく同じように、友人の父親ジョージは、私を強く抱きしめ、迎えてくれました。Welcome home, Mitz. と。

1年間の留学を終え、別れが辛くて泣き続けていた私に、機中の人が声をかけてくれたとおり、ウィスコンシン州のあの小さな町は、私の第二の故郷となりました。

あなたとまったく同じ体験をする留学生は、ひとりもいません。縁のあったその町、家族、友人、学校を、まずは好きになってください。好きなところを見つけて、受け入れてみてください。そして、“今”を存分に楽しんでください。1年はあっという間に過ぎていきます。

あの頃、ホストシスターが私のノートに落書きし、私が1年間、胸に強く刻みながら過ごしたこの言葉を、後輩のあなたへ贈ります。
Live each moment.

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