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2019年08月号より

1975年度生 渡鍋 文哉

広島県立三次高校よりイリノイ州へ留学
1977年イリノイ大学物理工学部入学、81年卒業
1990年イリノイ大学博士課程修了
1991年~1993年IBMアルマデン研究所研究員
1993年から九州大学材料工学科講師(常勤)
2003年再度渡米、イリノイ大学工学部客員研究員を経て、2006年よりアーカンソー大学リトルロック校ナノテクノロジー研究所(現Center for Integrative Nanotechnology Sciences)にてDirector of Instrumentation

高校留学が楽しすぎ、大学も米国に行ってしまいました

 広島県でも山奥の現三次市で生まれ育った私が米国留学を考えたのは、高校2年生の英語の先生にIFを薦められた時でした。英語の成績が中学から5段階評価の3だった私に取って、英語は苦手な科目でした。将来は物理を専攻したいと思っていたのですが、英語がもっとできないと自分の希望する大学には進学できないと自覚していました。自分は英語が話せないと飯が食えないところへ行かないと英語は身につかないという発想で、応募しました。
 1975年8月から76年5月まで、イリノイ州Serena High Schoolでホームステイをさせて頂きました。この9ヶ月が、その後の私の人生を大きく変えることになったのは言うまでもありません。ホストファミリーは皆とってもいい方達で、今でも交流があります。数年前に亡くなられてしまったホストファーザーには、色々な経験をさせて頂きました。シカゴのシアーズタワーやセントルイスのアーチなどの観光地や、物理学者になりたかった私のために、シカゴ郊外のアルゴンヌ国立研究所やフェルミ国立研究所へ見学に連れて行ってもらいました。アルゴンヌでは、この場所にアインシュタインが立ったことがあると言う実験室があったのが印象的でした。ホストファーザーは若い頃は貧しくて大学には行けなかったのですが、サイエンスとエンジニアリングの話題が大好きで、夜遅くまで会話が盛り上がったのを覚えています。ホストマザーはノルウエイからの移民で、言葉の問題に直面した経験があり、彼女の家族全員が私に優しく接してくれました。100歳近くで亡くなられた彼女の母上には亡くなるまで、 孫のように可愛がって頂きました。(ノルウエイ移民の子孫の多い町でしたが、生牡蠣 を平気で生で食べる私は、多くの生徒か変人だと思われていたようですが、豚の養殖している農家の子供達は豚の睾丸を食べると言うので、そっちの方が相当おかしいと個人的には思いました。)
 高校は一学年が100人に満たない位の規模でしたが、大学へ進学する生徒から、専門学校の科目のようなことだけを学んでいる生徒までいました。私と同じ年齢なのに、結婚して1歳の子供がいる女子生徒や、卒業後は空軍へ入隊することが決まっている生徒など境遇も様々で、進学校で同じような状況の同級生としか付き合いがない高校生だった私は、驚いたと同時に、世界は広いと実感するいい刺激にもなりました。仲良くなった女子生徒からは、彼女は大家族なので、大学の学費は自分で払うつもりで、高校生になってからずっと貯金をしていると聞き、親のすねかじりが当たり前だと思っていた私は大ショックを受けたのも覚えています。スポーツも参加すれば試合に出してくれると言う状況で、日本では野球とハンドボールをやっていたのですが、サッカーとレスリングをやってみました。どのスポーツも日本の部活と違い、少しの練習期間後すぐに試合が始まること、しかも、シーズン中だけしかそのスポーツの活動はできないことにとても驚きました。スポーツでも学業でも、日米の文化はものすごく異なると言うことを実感できました。スポーツ自体も面白い経験でしたが、 スクールバスに何時間も乗って行く試合遠征も楽しい思い出です。
 そして、ある日、本当に私の人生を変えてしまう出来事が起こります。美容師だったホストマザーの客の一人で、イリノイ大学に進学が決まっていた、医者志望の同級生の母親の提案で、私は、同級生と一緒に高校を1日休んで大学へ遊びにいくことになりました。しかし、実際にキャンパスに着くと、同級生はForeign Student Officeで私を車から降ろし、自分は新学期のクラススケジュールを決めると言って何処かへ行ってしまいました。Foreign Student Officeから出てきた若い女性に連れられて彼女のオフィスに到着すると直ぐに、色々な書類を手渡されました。最初は何が起こっているのかわからない私でしたが、彼女は書類を一つ一つ丁寧に説明してくれました。実は、この女性の上司と私を連れてきてくれた同級生の母親は昔からの知り合いで、私の話を聞いた上司がイリノイ大学へ応募して見たらどうかと伝えていたのでした 。帰国後、TOEFLを受けたり、書類を作成して大学へ送り返したりした後、11月初旬には合格通知が届きました。1977年に再度渡米し、イリノイ大学のフレッシュマンとなりました。今考えると、両親がよく許してくれたものだとつくづく思います。
 イリノイ大学では物理工学を専攻し、大学院では金属工学で博士を修了し、その後、IBMのシリコンバレーにあるアルマデン研究所で研究員をした後、九州大学工学部で常任講師となりましたが、2003年に米国人の妻の強い要望もあり、九州大学を辞め再渡米しました。日本の国立大学を国家公務員として経験できたことは大変貴重な経験となりました。 イリノイ大学で客員研究員をやっていたのですが、2006年からはアーカンソー州の小さな大学で電子顕微鏡等の装置の管理をする仕事をしています。 米国と日本で人生の半分ずつを過ごしたことになりますが、この人生を可能にしてくれた私の両親とホストファミリーに大変感謝しています。そして、全てはIFの留学経験から始まり、留学中に、自分はこの国(米国)の生活に向いていると実感できたことが一番の経験だったと思います。
 これから留学する皆さんは、とてもエキサイティングな10ヶ月になると思いますが、異国での体験にどっぷりつかって見てください。日本の常識が他国の常識ではないというのは、皆さん方は既にご存知でしょうが、本当に生活してみないとわからないこともたくさんあると思います。アメリカの高校ならではの、例えばAP Courseと呼ばれる、大学での単位が前取りできるコースや、車の修理やサービスをしたり家を建てたりするオートメカニックやカーペンター(大工)のコースのような実習的なコースなど、日本の高校ではなかなか受ける事の出来ないクラスに思い切ってチャレンジしてみたり、様々なクラブ活動にも参加してみるのも良い体験だと思います。
 今年、留学を終えて帰国された方達は、いわゆるReverse Culture Shockを経験されているでしょうね。9ヶ月も異国の文化にどっぷり浸かっていたため、日本人だったことを忘れてしまった私でした。見た目も変わっていたので、街を歩くと、色んな宗教の勧誘に会い、一緒にいた親戚たちから煙たがられたのも、今では思い出話の一つです。皆さんは貴重な経験をされて、世界を少し異なった目でみることができるようになったと思います。現在の日本は、外国語が話せるだけではなく、外国語をどう生かしていけるかが重要な社会になっていると思います。留学中に学んだ語学だけではなく、それぞれが選ばれた専門分野においてのご活躍を祈っています。

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