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2019年05月号より

1980年度生 大場 孝一

(私)早稲田大学高等学院よりArizona州へ留学
Sika Services AG Global Head of Target Market Roofing
シーカグループ本社、ルーフィング統括事業本部長 Dr. Eng., MBA

IF米国留学を通してできた人生の土台「更なるチャレンジを求めて」

 思い起こせば、これまでの人生、1980年8月に総勢百十数名の同志と米国留学したのが、全ての始まりでした。1979年、私が高校1年生の時、IFの留学生募集の案内を学校の広告掲示板で見て、両親に内緒で試験を受けました。幼少の頃から父と一緒にハリウッドの西部劇映画を頻繁に見て育った私にとって、アメリカは常に正義が悪者を倒す憧れの国でした。渡航前、当時は週に一回、15-20人程度の関東近辺に住んでいる同期留学予定の同志と英語会話・米国での生活準備についての研修がありました。留学中どのようなことに注意をすべきか、どうしたら生活に溶け込むことができるのかを仲間とともに学び、いろいろと勉強になりました。一度、それぞれが皆の前で自慢のパフォーマンスを披露するという日があり、自分がエルビスプレスリーのかっこをして、歌を披露したのを覚えていますが、当時何も考えず無我夢中で前を向いて走っていた自分が懐かしく思えます。1980年8月某日待ちに待った出発日がやってきました。当時は、東京の箱崎に全員集合で、皆ドキドキ・ワクワク、総勢百十数名が1機の飛行機でサンフランシスコへ飛び立ちました。その後、同志竹内君とともに二人でフェニックスへ。フェニックス到着後、私は一人でアリゾナ州ツーソン空港に移動しました。フェニックス空港で搭乗を待っている間、椅子で眠ってしまった私は、空港スタッフに起こされ、間一髪でツーソン行きの飛行機に搭乗したのを覚えております(笑)。ツーソン空港に到着したのは、真夜中。ホストファーザーが自家用車で出迎えてくれ、帰宅途中、マクドナルドに連れていかれた記憶があります。これが、私のとってのアメリカンライフの第一歩でした。
 私が留学した高校は、ツーソン近郊にあるSan Manuel High Schoolです。San Manuelは、銅の炭鉱の町で、アメリカでも労働者が多い町です。メキシコ国境から近い頃もあり、生徒の半数以上はメキシコ系アメリカ人という貧しい町でした。日本人はもちろん私一人だけ。学生食堂は、一個1ドルのハンバーガーかタコス。私も川崎といういわゆる製鉄工場の多い東京の下町で育ったので、そのような環境はすんなりと受け入れることができました。ご存知の通り、アメリカの高校は、スポーツが盛んで、秋・冬・春の3シーズンに分かれて、いろいろなスポーツをすることができます。日本の高校でアメリカンフットボールをしていた私は、アメフトをしたいとホストファミリーに相談したところ、私の体格ではケガするから辞めたほうがいいと言われ、マーチングバンドのドラム担当になりました。試合の遠征のときは、チアガールズたち! と一緒にスクールバスで遠征地へ、途中でピザハットによって夕飯を一緒に食べたりして、毎回の遠征試合が学校の遠足のようでした。アメフトのシーズンも終わり、冬のシーズンになるとレスリングを始めました。当時同じ学校のチームで、私の体重の62キロ級には州チャンピオンがいたので、やむなく一階級上の70キロ級で試合をすることになりました。相手が常に8キロ体重が重いこともあり、毎回敗退。しかし、一度だけ、逆転勝利することができ、皆で一生賢明応援してくれたことを鮮明に覚えています。どんなことでもあきらめず頑張ることの大切さを学んだ気がします。春に入ると、陸上スポーツ主体のシーズンになります。私は、棒高跳びに挑戦することになりました。世界記録保持者セルゲイ=ブブカの6.14メートルとはほど遠くとも、初心者3ヵ月で3メートルを飛ぶことができました。もともと小学校では運動音痴でしたが、努力すれば結果がだせるということを実感できました。アメリカという国は、何事も恥ずかしがらず失敗を繰り返しても、だれからもバカにされることもなく、成功をした時には、周りの皆がはしゃぎまくって喜んでくれる文化を持っています。皆さんも留学中はいろんなことにチャレンジしてみてください。正直言うと勉強はあまり記憶に残っておりません。唯一、最初の3か月間英会話についていくのにかなり苦労した記憶があります。相手の言っていることが全く分からず、内容をわかりもせず顔を引きつりながら冗談を一緒に 笑う繰り返しでした。毎日疲労困憊し10時間以上寝ていたのもそのせいかも知れません。クリスマス頃になるとかなり突然、相手の言っていることが分かるようになりました。面白いものです。
 帰国後、早稲田大学理工学部建築学科に入学した私は、都内で生活している外国人大学生のお世話をボランティアでしたり、日本人としての母国日本をもう一度見直したりもしましたが、米国留学から5年後、大学院1年生の時またも学内の広告でIAESTEという技術系大学生を対象とした奨学金の留学生募集案内を見ました。1986年10月から5か月間、スウェーデンにてIAESTEの留学研修を受けることができました。また米国とは違った欧州の文化を肌で感じることができる良い経験ができました。修士課程を卒業し、早稲田大学への博士課程進学よりもスウェーデンのストックホルム王立工科大学に戻り、助手として博士課程に入ることを決断し、人生の新たな第一歩を1988年にスウェーデンでスタートしました。1994年に博士課程卒業後、日本での就職オファーもありましたが、スウェーデンの大学在学中に留学で6か月間研究をしたスイス連邦国立建築材料研究所からオファーをいただいた私は、スイスという新天地へと移動しました。その後、スイス人の女性と出会い1997年に結婚しました。私の妻は、スイス人ですが、スウェーデンで生まれ育っている為、私たち家族(娘が2人)は、スウェーデン語を家族言語にしています。一方で、私が住んでいるチューリッヒ郊外はドイツ語圏です。スイスに引っ越した当時は全く喋れませんでしたが、日本の高校・大学で得たドイツ語の筆記・読解能力のお陰で、いまでは、部署内の業務運営はともかく、部下とも技術的な議論ができるまでになりました。
 その後、2001年にMBA (経営修士学)を学び、リヒテンシュタイン公国に本社を置くHilti Corp.という建築電動工具のメーカーに転職することができました。当時Hilti本社では、36ヵ国籍の従業員が働いており、それぞれの人種・背景を備えた同僚と問題なく働くことができたのも、米国留学で得た英語力・チャレンジ精神があったからこそだと思います。その後、スイスと日本をいったり来たり、2007年に転職したスイスに本社を置くSika AGという建築資材のメーカーの日本現地法人社長を経て、2013年よりスイス本社にて統轄事業本部長をしております。世界108ヵ国で、年商1300億円の事業展開をしておりますが、そのような事業の責任者としてやっていけるのも、IF米国留学で学んだ英語力、チャレンジ精神、その後のスウェーデン留学などで習得した世界観があってのことだと思います。グローバルな世界各国の人たちと渡り合っていくには、自分なりの世界観を持ち、グローバル精神に基づいた人生観を習得し、多様な文化を理解できる人間力を研磨することが必要です。米国留学はそのような人生のスタートを切る絶好の機会なのです。
 皆さん、令和元年の第一期留学生として、将来社会から期待されている日本人青年団の一員として、チャレンジ精神を忘れず、苦難にもめげず、米国・カナダ留学を頑張ってください。いつか、同窓会が開催され、そこで皆様と直接お会いできますことを楽しみにしております。

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