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2020年2月号より

1990年度生 青木 友里

県立栃木南高校から カナダ・アルバータ州に留学
筑波大学第三学群国際関係学類卒業
下野新聞社(栃木県)記者

地方でも世界は身近に

 地方紙の記者の私が、子どもの貧困をテーマに英国に取材に行ったのは6年近く前のことだ。半年間の連載記事として、発行エリアである栃木県内の事例を中心に取材していたのだが、国内外の先進例も取り上げることになったのだ。
 しかし英国には行ったことはないし、知り合いもいない。文字通り頭を抱えつつ、日本の知人のアドバイスで、とりあえずインターネットで調べてみると、子どもの貧困対策に取り組むチャリティ団体やBBCの特集記事がいくつかヒットした。さらに記事に出てくる団体もたどり、メールで取材のアポを取り付けた。相手は下野新聞という栃木の地方紙のことなど知るはずもない(だいたい日本人でも大半は知らないし、「下野」を「しもつけ」と読める人も少ないのだから)。にもかかわらず国会議員や公務員を含め、メールを送った半数以上の団体や個人が取材に応じてくれた。彼らは、自分の名声など度外視して、子どもの貧困という先進国にはびこる社会的問題を国境を越えて解決していこうという信念があるのだ。私は彼らの熱意と協力に感激しながら、こうも思った。IFで留学してよかった、と。  地方でも取材で英語が必要な場面は増えていて、東京五輪・パラリンピックを控えた今となってはそれが非常に役に立っている。昨年はナイジェリアの大使が来県し、ある市長と面会した。その市で同国選手団の事前合宿を行いたいという意向を示したのだ。私は面会が終わった後に大使を呼び止め、英語でその真意を確かめ、記事化した(ナイジェリアの公用語は英語だと、この時初めて知った)。地球温暖化に関する国連の政府間パネルが京都で会議を開いたときは、同僚が議長にインタビューするため補助してほしいと頼まれた。議長は韓国人だったが、非常にきれいな英語を話す人で、ほれぼれした。東日本大震災翌年の2012年には、ロータリークラブの社会人向け国際交流派遣事業に参加し米国ペンシルベニア州の原発を視察・取材することができた。
 こうした機会に恵まれるたびに、IFで留学してよかった、と思うのだ。
 もちろん英語を読み書き話せるようになったことは大きい。でもそれが一番の理由ではない。英語力は1年留学しただけでは十分身に付かないというのが私の実感だ。今留学中のIF生には、日本に戻ったら文法を含めてもう一度勉強しなおすことをお勧めしたい。留学中はなんとなく喋れるようになるし、なんとなく相手が言うことも理解できる気がしてしまう。でも、正確には分かっていなかったんじゃないかと疑っている。それは私が英国取材の後、ここ数年であらためて英語を学習しなおしているから思うことだ。実際、留学後に初めて受けたTOEICのスコアは860だった。それから20年後、勉強を再開した4年前は970。学習し続けないと留学してもすぐにさびついてしまうものだと実感した。
 じゃ、IF留学の何がよかったのか。国や文化の違いを乗り越えて接することができる基礎体力が鍛えられたことだ。その体力があるおかげで、地方にいても世界を近くに感じることができている。
 私の場合は、高校生という良くも悪くも多感な時期に、日本人が1人もいない人口3千人の小さな田舎町で現地の高校にダイブインした。IFの場合は、オオカミがたくさんいる柵の中に1匹だけ羊が放たれる感じ。逃げ場はない。しかもどの柵に入るのか自分に選択権がない。留学機関によっては、日本人だけを集めて語学研修をするとか、寮に入って日本人同士で生活するケースもあると聞く。それはそれで利点もあるのだろうが、オオカミの柵に放り込まれる方が、英語力を伸ばすにも、人間的に成長するためにも効果的だと思う。
 オオカミの中にもいろいろなタイプがいて、意地悪な奴もいれば、助けてくれる友達もいた。オオカミだと思っていたけど、実はウサギだった、犬だった、猫だった、そんなイメージ。その違いは柵の中に入ったからこそ、分かることでもある。
 私は現地の高校で、英語もろくに話せないのに、フランス語のクラスを取った。はじめは案の定、ついていけず、半べそをかいていた。しかもクラスメートの男子に差別されて傷ついた。その時、手を差し伸べてくれた友達がいた。放課後、廊下に座り、教科書を開いて一つ一つ丁寧に教えてくれた。私は彼女の助言通り、フランス語の予習として教科書をノートに丸写しすることを習慣にした。するとほどなく、理解できるスピードが速くなり、テストの成績が毎回クラスで1番になった。私に対する差別もなくなった。先生の態度も変わった。私は廊下で声を掛けてくれた時の友達の笑顔を一生忘れない。
 美術のクラスで私がアンディ・ウォーホール風に描いたマドンナの絵がホールに張り出されたとき、落書きされた事件もあった。これも傷ついた。すると全校集会で、美術の先生がマイクを持ち「許されない行為だ」と話し始めた。落書きしたのが誰かは分からない。でも、作品を傷つける行為がどんなことなのか皆で考える場を設けてくれたのだ。私はそれだけで十分だった。落書きされたショックよりも、先生の正義感に触れて涙が出てきた。
 私の最大の理解者はホストペアレントだった。共働きでダドは病院の清掃員、マムはファストフード店(Dairy Queen)の店員。どちらもパートタイムジョブで、決して裕福ではない。にもかかわらず6人の子どもたちに加えて私の面倒まで見てくれたのだ。特にマムは私の悩みや話をよく聞いてくれた。
 私は英語で日記をつけ、それをマムに添削してほしいと頼んだ。英語の勉強にもなるし意思疎通を図ることもできる。夕食の後、ソファに並んで座って日記を見せるのが日課となった。今思うとマムは立ち仕事の後でくたくただったのに、よく付き合ってくれたと思う。私が学校で同級生から差別されたと話すと「彼にとっては、あなたは障害者と同じなのよ」と言った。学校で唯一の日本人という異質でマイナーな存在。差別を受ける障害者もこれと似た思いを抱くのだろう。辛く苦しい思いをした分、それまで考えることがなかった立場の人の気持ちも考えることができた。そういう共感力も身に付けることができたし、現在の取材活動の中で生かすことができている。
 違いを越えてコミュニケーションができるという感動は、国や文化が違っても共通する思いがあるということに気づくことでもある。「多様性」は大事なことだ。尊重したい。だが現実には、口で言うほど簡単ではない。それは留学中のIF生がまさに現在進行形で実感していることだろう。そこを乗り越え続けることで、自分も社会ももっと成長していくと信じたい。そして、私が困難を乗り越えることができたのは、ホストファミリーや学校の先生、友人、同じIFで留学した仲間、そして留学をさせてくれた日本の両親のおかげだ。
 どうか留学中の皆さんも、周囲への感謝の気持ちを忘れず、留学生活を無事に全うしてほしい。

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