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2015年08月号より

1978年度生 泉  章 夫

栃木県立宇都宮高等学校よりIowa州に留学
新潟大学医学部卒業
自治医科大学医学博士号取得
自治医科大学産科婦人科学准教授を経て
さくら産院院長

親子でIFにお世話になって

 2015年6月に息子はまさかの金髪で帰国しました。笑顔でゲートから現れた息子は10ヶ月ですっかり大人びて(身長は期待したほど伸びていなかったのが残念でしたが)アメリカ生活を満喫してきた達成感にあふれていました。留学中の報告では夜中まで宿題をこなして授業についていき、友達とランチやお出かけをし、テニスチームで試合にも出ていると余裕をみせていましたが、「本当に楽しめているのかな」と半信半疑でした。しかし帰国後にrやthの発音をホストファーザーに教わった様子を語り、ホストマザーがランチに持たせてくれたシーチキンとピクルスのサンドウィッチを作ってくれ、洋楽を口ずさみながら留学先の友人にメールするなど充実していたことが伺え、IF留学させていただいて本当に良かったと大変うれしくなりました。選考から帰国まで熱心にご指導いただいた石月事務局長はじめ日本事務局スタッフや父母会役員方、そして本部の方々に心から敬意を表し感謝申し上げます。
 私自身は38年前に高校1年でIF留学選考試験を受けました。理系希望であったため、担任から「帰国後は文系転向しないと難しい」「理系に留学は向かない」と再考を促されましたが、アメリカ生活を経験してみたいという願望が帰国後の不安を凌駕し留学を決定しました。
 年明けには留学先がIowa州に決まりました。ポテトで有名なIdaho州なら聞いたことあるけど「Iowa?どこ?」という印象でした。「故郷栃木県のようにマイナーな州で私には合っているのかな」と妙に納得したものです。実際もアメフト・野球・バスケットボールともメジャー球団がなく、4年に1度の大統領候補氏名党員集会を全米で最初に開く州としてニュースに取り上げられる時以外は目立たない州です。Iowa州はコーンベルト地帯の中心で、一面コーン畑の彼方からトルネードが迫って来るのを数回目撃しました。8割以上白人ですがインディアン保留地がありインディアンも多い町で、「インディアン嘘つかない!」は嘘であることを学びました。学校では廊下やジムまでエアコン完備、体育の授業の後にシャワーを浴びる、ランチはカフェテリア方式、ジュニアやシニアはマイカー通学が多い、自宅でもセントラルヒーティング、洗濯は乾燥機乾燥、車のシフトはほぼオートマチック、ガソリンはセルフスタンド、買い物は郊外巨大ショッピングセンターで小切手(チェック)使用、と驚くことばかりでした。アメリカンカルチャーの多くが後に日本でも一般的になることを経験し、日本はアメリカの後追いだと思い知らされました。
 留学直後はゆっくり話してくれて自分の話題も多かったため「これなら聞き取れるぞ」と楽観しましたが、特別扱いが終わるとほとんど聞き取れない時期がやってきました。毎日が辛い時期でしたが、年が変わる頃には途中から会話に加わっても少し理解できるようになってきました。しかしそれは話の流れから「こんなことかな」と何となくわかったような気になっていただけで、単語、特に動詞がわからないために正確に理解できていなかったことも事実です。
 授業ではTypingと(今は選択できない)Driver\\\'s Educationが。指の置き方から始めて半年で1分間70wordsまでtypingできるようになり、driver\\\'s licenseを授業で取得し日本に持ち帰って日本免許に書き換えました。Englishは全くついていけず居るだけの“お客様”状態、でもMath.とChemistryは “smart boy”と呼ばれる成績でした。U.S.HistoryとU.S.Governmentではクロスワードばかりの印象でした。アメリカ人はクロスワード好きだなと思っていましたが、その後これも日本で流行ってきました。
 ホストファザーがアメフトとテニスのコーチをしていたので挑戦しました。しかしアメフトは165cmで鈍足の私にできるポジションはなく断念し、テニスのみチームと帯同できチームのNo9までランクアップしました。ここでテニスに目覚め、小中高と剣道部に所属していた自分を捨て、大学ではテニス部に6年間どっぷりと浸かることになりました。
 そして「語学留学」でなく「交換留学」ですので母校や地元日光の写真のスライドを作成し(PowerPointはなくフィルムのスライドです)、茶道のお手前を披露するためお教室に通い、剣道紹介のため木刀と竹刀も送り、プレゼンテーション準備をしました。幸いいくつかの授業や毎週通った教会、コミュニティの集会などで紹介する機会をいただき、私なりに「交換留学」生の役割を果たしたと思っています。
 帰国後は初心貫徹!理系クラスに復学し、受験を考え進級せず2学年に留年しました。英語は受験用Grammarのみで、他教科に時間を充てることが出来ました。結果的には留学前後2学年にわたる友人ができ、受験にも間に合いましたので、留年は自分には良い選択でした。
 医師となってから英語での患者診察、英論文読み書きや国際学会での発表などがあまり苦にならずに行なえたのも留学経験があったおかげです。理系の留学も良い選択であると確信しています。
 しかし私には後悔が三つあります。一つは留学前の勉強不足です。他国の「交換留学」生は英語が話せることが多く、「語学留学」を兼ねた自分とは違っていました。留学中には夢の中で日本の友人も英語で話しかけてくるほど英語漬けになりましたが、語学力が足りなかったことは帰国するまで克服できませんでした。最初から話せたらもっと楽しい留学になっていたのになあ・‥と。(留学前の息子に話しましたが伝わりませんでした)
 そして帰国後ホストファミリーとの連絡を粗にしてしまったことです。当時は受験が全てでエアーメールを書く時間さえもどかしく、大学に入学するまで1年半ほとんど連絡しませんでした。その後も何となく気まずく季節の挨拶のみになり、卒業する頃には連絡が取れなくなってしまいました。社会人になってもホストファミリーと交流があるというお話を聞くと、お世話になったホストファミリーに不義理をしたなあ・‥と。(息子のホストファミリーとの交流は続けていきたいと思っています)
 もう一つはIF後に留学をしなかったことです。大学生時代や大学勤務時代に留学する機会は何度かありましたが踏み出せず、今では50歳を過ぎて開業してしまいました。産婦人科では今でもアメリカで疾病の病名や診断基準が変わるとそれを世界基準として日本も合わせることが多くあります。英語名に合わせた日本語病名もわざわざ考えるのです。医学会以外の業界でもアメリカに追従することがあるのではないでしょうか。社会人としての英語力、キャリアアップに繋がる情報や技術の取得、日本に持ち込んでビジネスにつなげられる何かの発掘など目標を持って望む「社会人留学」をしておくべきだったのではないか・‥と。(息子が次の一歩を踏み出すことを期待しています)
 帰国前に流行していたVillage PeopleのYMCAを毎日聞いていましたが、日本では西城秀樹がカバーして大ヒットしました。今でもYMCAを耳にするとノリノリで踊っていたホストファザーを思い出します。洋楽をあまり聴かなかった息子は帰国後ブルーノマーズを聞いています。きっと彼も30年後に音楽と共に留学の記憶が浮かんでくることになるでしょう。
 インターネットなどで世界の情報が居ながらにして得られてしまう時代であることは確かですが、高校生としてホームスティできる「交換留学」は異文化を知るかけがえのない経験であることに変わりありません。是非IF留学を選んで一生の宝にしてください。

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