>> サイトマップ


2018年2月号より

1989年生 高口朝子

洗足学園大学附属高等学校より米国ウェストバージニア州に留学
慶応義塾大学総合政策学部卒業
一般社団法人共同通信社 記者

私の礎

 「Please help me」。これが多分、私が米国で発した最初の一言だ。場所はペンシルベニア州ピッツバーグの空港、声をかけた相手は警備員。私は到着後、出迎えのホストファミリーに会えず、私のスーツケースも見あたらず途方にくれていた。
 既に最終便は出た後で、店舗のシャッターが次々と降ろされ人も少なくなっていく。「どうしよう、何かがおかしい…」。当時私は16歳、英語もろくにしゃべれず不安がどんどん膨らむ。頭の中で必死に単語を組み立て、頼れそうな人を選んで声をかけた。
 「大丈夫だよ、どうしたの?」。返事を聞いたら涙がどっとあふれた。
 ▽▽▽
 留学先がウェストバージニア(WV)という米国東部の小さな州に決まっていた私は、日本から2回、飛行機を乗り換える必要があった。だが、不慣れさや生来のおっちょこちょいな性格から、2番目の経由地ピッツバーグ(WVの隣)が終点だと勝手に思い込んでしまった。ホストファミリーもスーツケースも、私を置いて本来の目的地WVの空港にあった。
 警備員に連れて行かれた事務所ではあっさりと状況を把握。私は予定の飛行機に乗りそびれ、ホストファミリーも次の空港で待っていることを説明されて、また涙があふれてきた。「初っぱなからやってしまった」。ずっと夢見た留学生活なのにスタートから大失敗だ、と悔しさも加わりしゃくり上げた。
 その間に職員らは、翌朝の便と近くのホテルを確保し関係先に連絡もしてくれた。私は不安と疲れと挫折感でぼうぜんと泣き続けた。すると、職員が私のそばにひざまずき「そんなに心細いなら、女性職員が一晩一緒に付き添ってあげようか」と声をかけてくれた。
 予想外の途方もない親切にどう反応して良いかわからなかった。見も知らずの、言葉も通じない私と一緒に?びっくりしたが、とてもうれしかった。恥ずかしさもあり、大丈夫ですと断った。
 すると、別の職員が「帰りがけだから車で送ってあげる」と申し出てくれた。車内でも私の気分をほぐそうといろいろ話しかけてくれ、たどり着いた小さなホテルではフロントまで着いてきて担当者に説明してくれた。
 空港やホテルの外はひたすら森が広がり真っ暗だ。人影どころか対向車もほとんどいない。日本とは桁外れの異国の壮大さと、それに比べた自分の小ささを感じ、身震いした。そして、私に縁も義理もないのにここまで助けてくれた人たちのありがたみを痛烈に感じた。心配しているだろう私の家族やIFの事務所の方の顔も浮かんだ。去りゆく職員に手を振りながら、この恩は絶対にいつか返さなきゃと誓った。
 ▽▽▽
 WVは、米国人にも「何のために行くの?」と驚かれるほど何もない田舎だ。私がいた町も周囲を高い山並みに囲まれ、友人宅にも車で1時間、電話も長距離通話だった。トランプ大統領を支持する白人労働者が多いいわゆる「ラストベルト」を含む保守的な土地柄でもある。ほぼ白人しかいない町で、私は唯一のアジア系。「異邦人」であり、住民らには私を助ける義務もない。
 でも留学中はのびのびと過ごすことができた。1年の間にはホストファミリーとのトラブルもあった。友人とケンカもした。楽しい思いや感動する経験もたくさんあったが、周囲の助けがなかったら今の私は存在していないだろう、という危機もたびたびあった。その都度、私の思いを確認し助け舟を出したり、見守ったりしてくれた人たちがいた。
 意見が異なってもつたない英語でも、私が何を考え求めているのかを聞いてくれた。その上で、できる限りの支えを示してくれた。だから私は異国でも1人じゃないと感じられたし、自分の意見を恐れず表現することを学べたのかもしれない。
 なぜ、そんなことが実現したのだろう。たまたま幸運だったからとか、単に若かったからだとか簡単な理由では片付けたくない。
 私も必死だった。小さな頃からの夢が実現し「何でも見てやろう、やってやろう」と思っていた。この場所で私を何とかわかってもらいたい、せっかく実現したこの日々を思う存分楽しみたい、と必死だった。
 1年の間には、食生活や生活文化の違いに驚くこともたくさんあった。でも異質さも受け止めよう、とも思っていた。彼らにとっては私も異質な存在かもしれないのに受け止めてくれたから。
 ▽▽▽
 私は今、報道機関で記者として働いている。英語を使う機会は多くはないが、海外での取材も気後れせず行きたいと思えるのは当時の経験があるからだと感じる。
 留学の成果は英会話に恐怖心がなくなったことだけではない。当時いろんな失敗もしたが、周囲に支えられ乗り越えられたという自信が私の背中を押してくれているからだと思う。未知の世界を知るのは怖かったり億劫だったりもするが、外の世界を知りたい、壁があるならその向こうを見たいという気持ちは今も弱まることがない。
 今の時代は、自分たちを最優先する内向き志向が強まり、異質さを排除しようと分断が深まっているとされる。人種や文化、信念などあらゆるものには相違があり、歩み寄るのは簡単ではないこともよくわかっている。
 でも私は、違いを超えて頼れるものも信じられるものもある、と思いたい。そうでなければ、あの1年はどうやって乗り切れたのだろう。私が彼らの立場だったら、同じような助けを差し出すことができるだろうか。
 未知の世界や変化に不安や恐怖を感じるのは当然だ。でも、何が起こるかを正確に予想するのは難しく、実際触れてみたらそれ以上に得るものもあるかもしれない。想像し過ぎて足が動かなくなる前に、若い皆さまにもぜひ一度その経験を味わってほしいと願う。
 ▽▽▽
 数年前にWVで高校の同窓会があり、私も渡米して参加した。通った学校は大きな隣町の高校に吸収され廃校となってしまったが、校舎や周囲の町並みは二十数年前のまま残り、時が止まったようだった。大自然の美しさや、少しシャイでのんびりしたヒルビリー気質も変わっていない。日本とは全く違う環境で友人たちに囲まれていると、やはりこの時の経験が私の土台になっている、と確信することができた。
 あの時の恩返しはまだ実現できていない。出会った人たちにとっては些細な一瞬の出来事でとっくに忘れているだろう。でも、あの時の数々の経験が連綿と続いて私の礎となっていること、今でも私の目と世界を開かせ続けてくれていることを、1人でも多くの人に知ってもらいたい。それが少しでも恩返しになるのかもしれない、と考えている。

△上へ戻る