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2010年11月号より

1997年度生 徳永 陵

(県)浜松北高校よりNebraska州に留学
(国)一橋大学法学部卒業
外務省入省
カナダ・ヨーク大学シューリック経営大学院留学、経営修士号取得
現在 在インド日本国大使館勤務

外交官の仕事と留学経験  

 この文章の目的は①外交という仕事について②私の職業選択に留学の果たした役割についての2点を、これから留学する人/留学したいと思っている人に伝える事です。
 まず、そもそも「外交」という職業は何をする事なのでしょうか?これは一言では答えられませんが、国と国ではなく、人と人との関係で考えると分かりやすいと思います。
 例えば、お互いが苦手だと感じている近所の2人が会って話をするとします。すると、会う前に「どんな話をしよう?相手はどんなことを考えているのだろう?苦手だけど、相手は近所付き合いをしたいと思っているのだろうか?」等など考えて調べたり、仲の良い他の隣人に相談したりすると思います。そして、相手の都合の良い日を聞いたり、会う場所を設定したり、相手が好きなお茶菓子を調査して買ったりもすると思います。苦手な相手が町内会長だったりすると、更に緊張するでしょう。会って話した事が町内に知れ渡ってしまうかもしれないし、町内会長に嫌われれば町にいづらくなるからです。その場合には町内会で話し合われている事や、町内会長が関心を持っている事や意見を強く持っている事を調べて、賛成するか反対するかも決めておく必要があります。最悪の場合には町内会から脱退する事だって考えておかなければなりません。逆に、非常に仲の良い隣人と会う場合には、定期的に会う約束をし、笑顔で写真撮影をしても良いかもしれません。
 簡単に言えば、これを国と国の関係に置き換えて、総理大臣の手足となって相手の考え方を事前調査し、会う場所・日時の調整をするのが「外交官」です(ただし、国際関係は町内会よりも複雑で、国のリーダーは様々な国内利益を代表しているので町内の2人が会う時よりも難しいということがあります)。テレビで2つの国の首相が握手をしてカメラにポーズをし、合意した文書にサインする姿を見た事があると思います。そのお膳立てを数ヶ月前、1年前からこつこつと準備するのです。外交という仕事には一見、晩餐会に出席して各国の関係者と親交を深めるといった華やかなイメージがありますが、そのような場においてさえも周到な準備がなされ、裏舞台は、限られた時間の中で誰に何を働きかけるかという緊張感であふれているのが常です。外交官とは、周到な計画によって国際社会におけるあらゆる対話を裏から支える職業と言ってよいのではないかと思います。
 私はまだ駆け出しですが、この仕事をするにあたって高校留学の経験が果たしている役割はとても大きいと思っています。それは、自分の知らない世界がある、自分の常識とは違う考え方をする人がいるという事実を留学中の10ヶ月間、毎日肌で感じ、その経験の蓄積が「人は皆、自分が背負ってきた歴史をもとに判断し、行動する。その行動に賛同出来なくとも、その人の言動の背景・歴史を知る事によって理解し合うきっかけが生まれる」という1つの確信になった事です。そして、自分と違う考え方をする人と会い、その人の歩んで来た人生を自分なりに聞き出し、解釈する事を楽しいと思うようになりました。10ヶ月という短い期間ではありますが、以下回顧録にあるような強烈な体験が上に述べたような職業に結びつく大きな一因となったと思います。
 皆さんはそれぞれ、将来の夢をもっていると思います。この留学がその夢を実現するにあたって有益だろうか?など小難しい事は考えず、皆さんの今後の人生に大きな影響を与える1つの機会だと思って、思い切って飛び込んでみる事をお勧めしたいと思います。国際的な仕事に就きたいと考えている人には、この文章が留学を決意する1つのきっかけとなる事を願っています。

(私の留学の回顧録)
 1997年8月、私はコロラド州デンバー空港に降り立ち、両手がまわらないほど肉付きの良いシングルダッドのハグを受けた。笑顔の暖かい人だった。空港を出てひたすら平原を6時間走り続け、たどり着いたのはネブラスカ州西部の人口300人の村だった。村から30分も畑の中を歩くと周り360度が地平線になり、空の広大さと自分の小ささを知った。村の中にはヒスパニック系もアフリカ系もおらず、純粋な白人社会。皆、敬虔なキリスト教徒で、日曜日には教会にほとんどの村民が集合し、各々得意な料理を持ち寄っての陽気な昼食会が毎週あった。貧富の差は激しく、金持ちの子供は貧乏な子供と遊ばなかった。皆、お互いの事を全て知っていて、狭い社会でのうわさ話が毎日の話題だった。日本の話をすると一生懸命聞いてくれ、何でも助けになるからと言ってくれた。通りですれ違うと挨拶から色々な話に発展し、立ち話が長くなるのが常だった。陸上の州大会で校内記録を50年ぶりに破った時は、記録保持者の欄に名前を載せてもらえなかった。どうせ10ヶ月しかいないからと思われていたようで悲しかった。無理だろうなと思いながらも学校の音楽団でクラリネットをやりたいと言ったら、笑顔ですぐにやらせてくれた。演奏会の後、しっかり音が出ていたと褒めてくれた。ダッドは私が到着した次の月から癌にかかり、診療のために毎週往復2時間の道のりを通院するようになった。万が一のため、車内携帯電話を買った。そんなダッドに私は旅行に行きたいと言ったり、この村での生活がつまらないと言ったり、我が儘だった。日本に帰る時、しっかり感謝の気持ちを伝えられていなかった気がする。しかし、それがダッドと会った最後だった。今も後悔が残る。

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