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2019年02月号より

1989年度生 小林 治郎

(私)青山学院高等部よりカナダ、ノバスコシア州に留学
青山学院大学国際政治学部卒業
チェースマンハッタン銀行を経てバイオベンチャーを起業
その後、一橋大学院国際企業戦略研究科でMBAを取得
戦略系コンサルティング会社を経て、デル株式会社にてeBusiness事業部本部長、マーケティング本部長などを歴任後、執行役員を務める
その後、現在のリーチローカル・ジャパン株式会社代表取締役社長に就任



 私がIFの交換留学生としてカナダに向けて成田空港から飛び立ってから、驚くなかれ、もう30年の月日が経とうとしています。「30年」と書いて、私が驚くのは、それほど長い時が経ったにも関わらず、IF交換留学生として過ごしたあの10カ月の事が今でも鮮明に思い起こせるほど強烈な印象が残っていて、それ程の昔の体験と思えていないからでしょう。
 IFの交換留学の経験は、間違いなく私の今までの人生において特筆するべき大きな経験でした。もし、これから30年後に自分の人生を改めて振り返ることがあるとしても、間違いなく「あの10カ月は私にとって人生の大きな分岐点になった」と言っているに違いありません。
 ただ、それほど自分にインパクトを与えたIF留学との出会いは、本当に偶然の賜物でした。高校では多くの人がそうであるように、私は日々の勉強や部活に明け暮れ、大学の事や将来について、漠然とした不安はありながらも、むしろ考えないことを選んでいた気がします。実は、留学というものは自分の中では「誰か他の人がするもの」と勝手に思い、あこがれも想像もしていなかったのです。そんな時、IFの募集要項のポスターを掲示板に貼ろうとしていた当時の担任の先生の脇をたまたま通りかかった時に、「小林、お前はどうだ?」と声をかけられたのです。あの先生の一言が無ければ、私の人生も大きく変わっていたと思うと、人生は何がきっかけになるかわかりません。
 また、留学先がアメリカでなくカナダになったこともほんの「弾み」でした。IFの選考に合格し、当然ながらアメリカに行くことを思い描いていましたが、あまりにも周りのみんながアメリカ、アメリカと言っていたことに、天邪鬼(あまのじゃく)の自分の性格が顔を出し、「じゃあ、自分はカナダにする」と希望を出したのでした。その後の私の人生でもたびたび現れる「みんなとはちょっと違うことをしたい」という自分の性格が、その当時からも見え隠れしていたのだなと今になって感じています。
 留学した先は、カナダでもアジア人が多い西側の州ではなく、ノバスコシア州という東の端っこの州でした。さらには、その中でも「ケープ・ブレトン島」という日本人には全く縁遠い場所で、日本人など見たことないという人がほとんどの田舎の港町で、人口は3,000人ぐらいのところでした。ホストファミリーは、地域のケーブルテレビ会社のチーフエンジニアだったホストファーザー、町の名産でもあった貝の加工工場で働くホストマザー、そして音楽好きで一つ年下のホストブラザーと当時8歳だったもう一人のホストブラザー。そんな家族にお世話になりました。
 それまで都会の高校に通っていた私にとって、田舎町での高校生活は何もかもが新鮮でした。もちろん、言葉のハンディから勉強はついていくのが大変でしたが、現地の友人ができてからの日々のカフェテリアの会話、スポーツチームに選抜されて2回も州大会に出場した「スクールトリップ」の思い出や、アメリカ・カナダの高校生にとっては一大イベントでもある「プロム」に誰を誘うかを友人たちと相談しあったりした甘酸っぱい思い出など、本当に濃い10カ月を送り、ある意味で、絵にかいたような「海外高校生活」を送ることができました。帰国後に日本でも高校を卒業した私は、日本の高校生活の思い出も沢山あるので、当時を思い返すと、全く別の人生を並行して体験していたような不思議な感覚になります。
 実は、この留学を通して、自分がどれだけ「日本人」であるのかも思い知らされました。当時は、日本経済の絶頂期とも言える時期で、「Japan As No.1」などともてはやされていた頃ではありましたが、実は、留学前には日本のことに対して文句ばかり言っていました。ある意味では、母国に対する反抗期だったのかもしれません。しかし、カナダに渡ってからは、友人たちが日本の事を良く言ってくれると素直に嬉しかったですし、悪く言う人が言おうものなら、一生懸命に日本を弁護する自分に気がつきました。町に一人しかいない日本人として、勝手に「日本代表」を背負い、日本に対するステレオタイプを正し、その文化や考え方を正しく紹介しなくてはいけないという使命感を知らず知らずに醸成されていった時でもありました。
 色々な経験をできた留学生活でしたが、その後の私にとって、最も幸運だったのは、コンピュータエンジニアでもあったホストファーザーとの出会いでした。当時はゲームをするためのだと思っていたパソコンが、実際にはビジネスの世界で、すごく活用されていることを教えてもらいました。今では毎日のように使う「表計算ソフト」の凄さを教えてもらっただけでなく、当時はまだ「パソコン通信」と呼ばれ、いずれは「インターネット」と呼ばれることになる最先端の世界を体験させてくれたことは、まさに衝撃的でした。また、ホストファーザーの勤め先の社長が、一代で州全土に手広くビジネスを築き上げビジネスマンであったことから、その方の「血沸き肉躍る」逸話の数々を聞くことができたことも、「ビジネス社会」と言うものを全く知らなかった高校生の自分には非常に刺激的な体験でした。
 帰国後、大学生時代に経営学やインターネットというものに傾倒していったことも、25歳の時にサラリーマンを辞めて友人たちとベンチャー企業を起業したことも、その後、大学院でMBAを取得したことも、また、米系大手IT企業の日本支社の役員にまでなれたことも、また、今現在の仕事をしていることも、全てIFでの留学にその起源を見出すことができると言っても過言ではありません。
 現在の留学は、チャットアプリやネットによる様々な通信手段が違うため、当時の留学と比べることはなかなか難しいかもしれません。日本の友人達やIF同期の友人達から「手紙」を受け取った時の喜びは、簡単に連絡が取りあえる今では違うものになっているでしょうし、今は数カ月に一度届くNEWSLETTERを待ち焦がれることもなくなっているのかもしれません。しかし、私が30年経った今でも、IF留学の同期の友人達や、留学していた先の友人達とつながっていることを考えると、通信手段がどんなに進化しても、強烈な共有体験を通して作られた仲間が、人生の大きな宝物であることはきっと変わらないでしょう。
 皆さんには、皆さんの時代の留学を体験してもらい、私にとってそうであったように、皆さんにとっても、その経験が、一生忘れる事のないほどの素晴らしい経験になる事を願っています。

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