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2017年04月号より

1983年度生 中山俊宏

(私)青山学院高等学校 サウスダコタ州に留学
青山学院大学国際政治学部卒業
青山学院大学大学院国際政治経済学研究科博士課程修了、博士(国際政治学)
ワシントン・ポスト紙極東総局記者、日本政府国連代表部専門調査員
日本国際問題研究所主任研究員、ブルッキングス研究所招聘客員研究員
津田塾大学准教授、青山学院大学教授等を経て、現在慶応義塾大学総合政策学部教授
主著に「介入するアメリカ」、「アメリカン・イデオロギー」など

サウスダコタ、ハンティング、そして通過儀礼

 滞在先がサウスダコタ州だとわかった時は一瞬、そもそも留学を取りやめようかとさえ思った。当時、都心の高校に通っていた高校二年生だった私は、都会の生活に浸りきっていた。サウスダコタ州という場所などそもそも聞いたことがなかったし、調べれば調べるほど、どうもアメリカ人さえもイメージが湧かないような辺鄙な場所だということがわかってきた。
 自分で決めたことだろという父親の説得で、どうにか気を取り直して、出発の日を待った。当時は、パソコンで映像や動画をスクリーンに投射することなどできないので、京都や奈良、そして鎌倉に写真を撮りに行き、それをスライドにして持っていく準備をした。
 ワクワクしていたというよりかは、どちらかといえば、都会の高校生活を離れるのが寂しく、気が重かったように記憶している。ただ、どこまでも続く都会の高校生活の日常にも嫌気がさしていたので、そこから抜け出したいという感覚があったことも確かだ。不思議なことに、出発直前の自分というのが今ではほとんど思い出せない。
 私の留学の記憶は、ミネアポリスで乗り換えた小型のプロベラ機で滞在地のウォータータウンに向かっているところから始まる。それまであんな小さな飛行機に乗ったことはなかった。着いた空港も、空港というよりかはだだっ広い平地だった。そこが飛行場だとわかるのは、その場所が鉄の柵で囲われているからだ。もちろん滑走路はあるが、周りが果てしなくフラットなので、地形的には全く区別がつかない。この限りなく、フラットな地と一年つき合うのか思うと気が重くなった感覚は今でも覚えている。地形がほぼ変わらず、360度どこまでも見渡せるという風景は、都会の雑然とした細切れの風景に慣れていた自分にとっては、開放的というよりかはむしろ威圧的な感じがした。
 ウォータータウンは、当時は人口1万6千人程度、でもサウスダコタ基準だと「シティー」である。州で圧倒的な都会はスーフォールズ、ついでラピッドシティがあったが、前者がどうにか10万人を超える程度で、後者はそれにも満たない。で、なんとウォータータウンは、人口1万6千人で、サウスダコタで三番目の都会だというのだ。これにはびっくりした。
 高校に行くとやたらとカウボーイ・ブーツを履いている人が多い。ナイキのスニーカーを履いていた自分は、家族の勧めもあって、ブーツを買うことにした。どうもトニー・ラマというブーツがいいらしい。だがお店に行くと結構いい値段だったので、それらしい割安のブーツを購入した。そのブーツを履いて学校に行こうとしたが、ダメ出しがでた。ブーツカットのジーンズを持っていなかったからだ。ブーツにジーンズを「タックイン」するのは、ちょっとフェミニンな感じがしてまずいと。と、まあ、しばらくはこんな具合だった。
 秋になると狩猟シーズンが始まる。ちょうどどうにか生活に慣れてきた頃だ。私のホストファミリーは、父が保安官(シェリフ)だったこともあり(もしくはその逆でハンターだったから、保安官として信頼されたのかもしれないが)、毎週末、雉、カナディアン・グース、鹿などを狩りに行った。そして、私もほぼ毎週それについて行った。銃の講習も受けて、群(カウンティー)が発行する許可証ももらった。わずか数時間講習を受けただけで、他の国の高校生が銃を撃てるなんてすごい国だと思った記憶がある(今は多分、とてもそうはいかないだろう)。ハンターとしての腕前は、まあ引き金は引けて、玉をまっすぐ撃てるという程度のものだろうか。
 これはお前の責任だと散弾銃とライフルを一丁ずつ任された時は、当時はそんな言葉は知らなかったが、あー、これって少年から大人になる「通過儀礼」なんだと漠然と感じた記憶がある。私のホスト・ブラザーたちもそうだったが、高校の仲間の多くは、大学にはいかなかった。高校を卒業して、軍に志願するか、もしくは1万6千人の小さな街で仕事を見つける。高校二年生といえば、もう大人としての自覚を持たなければいけない時期だ。こういうところで、男の子は銃を任され、少年から大人になっていく。
 留学したのは、今から30年以上も前のことなので、記憶は大分薄れてしまっている。その後、アメリカに何回か住み、仕事では何十回アメリカに行ったか分からない。気がつけば、自分の仕事はアメリカそのものを語ることになっていた。実はこの原稿もアメリカ行きのフライトの中で書いている。
 普段は自分の源流なんていうことをあまり考えることはしないが、あえて考えると、アメリカの「ハートランド」で過ごしたあの一年がそれだったんじゃかないかという気がしてくる。留学のあとも、色々なことがあったが、多分、サウスダコタで過ごしたあの時間と経験の総体が自分にとっての通過儀礼だったと考えると色々しっくりくる。
 帰国した時、自分がどう変わっていたか、振り返ってみると、両親に聞いたことはない。もしかすると全然変わっていないと感じたかもしれない。当時の自分も特に変化を自覚していなかった。ただ、振り返ってみると、多感な高校生の一年を、親から離れ、東京の高校生の感覚を引っぺがされ、銃を任され、サウスダコタのような場所で過ごして変わらないわけはないと思う。いや絶対に何か変わったはずだ。もう父親にそれを聞くことはできないが、来週帰国したら是非母親には聞いてみたいと思う。

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