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2020年4月号より

1986年度生 内山 その

私立玉川学園高等部から オハイオ州に留学
早稲田大学政治経済学部卒。
PwCコンサルティングにコンサルタントとして入社。その後広報キャリアに転じ、IBMビジネスコンサルティング(現IBM)、日本テレコム(現ソフトバンクテレコム)、投資ファンドRHJインターナショナルを経て、株式会社シグマクシスの立ち上げに参画。現在、同社コミュニケーション&ケイパビリティ部門のディレクターを務める。組織のイノベーション力を高めるコミュニケーションおよび環境構築のコンサルティングサービスも展開している。

「正解」は、探すものではなく「創るもの」

 新型コロナウイルスが世界中で猛威をふるう中、新年度を迎えた。
 私は国内コンサルティング会社で、広報と人財採用・育成の部門の責任者を務めている。4月1日は例年、50名近い新入社員の入社式、都合半年におよぶ新人研修の開始日、年度初めに全社を集めて行う社員総会と、私が統括するプログラムが目白押しの日だ。しかし今年は、「三密を避ける」をキーワードに、全てをZoomというオンラインプラットフォームの活用と、動画制作そしてその配信に切り替えた。
 振り返れば、2月はまだ日本はのんきな空気の中にいた。ダイヤモンド・プリンセス問題でメディアやSNSは盛り上がり、コロナはあくまで横浜港の船内の話にすぎなかった。しかしわずかひと月足らずで状況は急転。これはまずいと直感的に思い、これまで慣れ親しんだやり方を全て捨てて、これまで数か月かけて準備してきた全プログラムをゼロからプランしなおそうと決めたのは、ちょうどひと月前だ。
  私の25年間の社会人経験においても、やったことのないことづくめのひと月だった。全社の事業の命運がかかる案件ばかりだ。トライアンドエラーを繰り返し、刻々と変わる市場環境に対応しつつ、メンバーたちを鼓舞しながら、「大丈夫、必ず成功するから」と笑顔で言い続けて今日を迎えた。そして数時間前に4月1日の全てを終え、多くの社員からもらった「これまでにない体験だった」「わくわくした」というフィードバックと共に、やりきった感のあふれ出る表情で帰路につく我がメンバーたちを見送って、私はやっと今、この原稿を書いている。
  全ての企画を捨てて1か月で全部やり直すという決断をしてから今日までの私を振り返ると、猛烈にアドレナリンが出ていたなと思う。コロナがどうなるかわからない。政府がどんな方針を出すかわからない。市場は荒れている。世の中のテクノロジー環境も、リモートワークブームでひっ迫している。「こうやれば必ずうまくいく」という方法論はないし、「これが正解だ」という絶対的な解を持っている人もいない。
 でもそんな不確実な状況に直面したとき、私はいつも思う。「どうするべきかを考えても答えは出ない。自分がどうしたいか、最後どんな状態にありたいかを明確にし、それを目指して最後までやりきれれば、それが正解だ。」
 そして、これは私が高2の時に、一人も日本人のいないオハイオ州の片田舎に、大して英語も話せない状態で一人飛び込んだIF留学をした1年間で獲得した、私の信条でもある。
 今となっては時効だから告白すると、私がIFで留学したきっかけは、「留学したいから」ということそのものが理由ではなかった。音楽家の両親のもとに生まれ育ち、ひたすら音楽教育を受け、ピアノ以外に強みがなかった私は、高校に入った時に「このまま音楽家になるのだろうか」とふと立ち止まった。もっと自分には可能性があるのではないか?もっとやりたいことがあるのではないだろうか?と周りを見回した時、自分が今まで慣れ親しんだところから飛び出したい、そんな願望があった。自分をリセットしたかったのだと思う。そこで、自分の身近な先輩が留学後見違えるように成長した姿をみて憧れ、IFを受験してオハイオに飛んだ。
 そこそこ勉強ができて、そこそこ英語ができて--そんな感じで現地についた私には、心構えも何もあったものではない。映画に出てくるアメリカとは程遠い片田舎の、裕福とは言えない警察官の家庭。物珍しそうにジロジロみながら、よくわからない英語でからんで来る同級生たち。どうふるまったらうまくいくのか、何をしたら仲良くしてもらえるのかということをひたすら考え、迷い、試し、悩みという時期が続いた。そんなときに、何かにつけて「そのはどうしたいの?」という質問を、ホストマザーからも姉妹からも問いかけられ続けた。
 「どうすべきか」ばかりを考えていた私が、思い切って「こうしたい」ということを自分から言えるようになったのは、3か月くらいたってからだ。おそらく、言葉の壁がひとつ超えられた時期、すなわち、誰もが体験する耳と口が急によく機能するようになった瞬間だったのではないかと思う。たとえば「街の演奏会でピアノを演奏したい」、「コーラスのコンテストで伴奏をしたい」。果たして、まわりがどう反応するのか、実現するのかどうなのかわからないけれども、自分が「したい」ということを発信し始めてみるようになった。
 すると、「そうなの?だったらこういうグループに申し込みしたら?」「練習に車で乗せていってあげようか?」と周りから手が差し伸べられるようになった。その心意気に応えようと頑張っていい結果がでると、さらに周りからのアドバイスや支援が集まり、あれよあれよという間に活動のレベルがあがり、最後は、高校の音楽の先生が近郊の音楽大学のピアノの教授のところに、週に一回レッスンにまで送り迎えしてくれるようになった。音大生とのコミュニティができて、大学内の演奏会でも演奏し、コンテストで優勝して新聞にも載った。
 この時の私は、何かゴールをイメージして自らの主張を発信したわけではなかったのだが、この時理解したことは、「どうすべきか」と逡巡して自ら物事にポジションをとらないうちは、何も動かないし、かえって物事が後退する、ということだった。
 自分らしさを見失ったり、失敗を恐れたり、正解を求めたり、批判や反対意見を怖がったりしている間は、道は開かない。遠くに目を向けて、「私はこんな風でありたい」「こんなことをしていたい」というビジョンがあって初めて、そのことを人に宣言できるし、宣言すれば共感してくれる人が集まる。人が集まればチームができる。一人ではできないことができるようになる。目指していることがだんだん実現に近づき、それが達成できたときには、関わった人達と共に大きな価値を生み出すことができる。そうやってやりきった時、その事柄は私にとっての、そして関わってくれた人にとっての「正解」になるんだ、ということを、私は未熟なティーンエイジャーなりに痛感したのだと思う。そしてこの原体験が、常に社会人、企業人である私の胸のどまんなかにある。
 だから、座右の銘は?と聞かれると、私はいつもこう書く。
 「正解は、探すものではなく、創るもの」
 不確実性が高い世の中、ビジネスの世界においても、もはや正解などない。不確実の中で唯一信じられるのは、自分のビジョンであり、それをやり遂げる意志と勇気であり、それを発信することで集まってくれる仲間であり、そのチームで創り出した価値だ。これからの世の中を牽引していく若者は、そんな世界にキラキラとしたまなざしで飛び込んでいく人達であってほしい。そして、高校生という未熟と柔らかく、未来への可能性しかない年代で留学するIF生には、自らのエネルギーを思いきり爆発させる経験をして、日本に帰ってきてほしい。そして、ますます混とんとする未来の社会を、輝く光をもってリードする人財になっていってほしい。
 みなさんの留学生活が、人生においてかけがえのないものになることを、心から祈っています。

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