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2013年8月号より

1994年度生 岩崎淳

麻布高等学校よりNew York州に留学
早稲田大学政治経済学部卒業
米国ニューヨーク州立大学ビンガムトン校経営学部卒業
日立製作所勤務

社会人生活の原型

 私は今、電機メーカーに所属しながら情報システムの構築を仕事にしている。仕事は情報システム構築のプロジェクトマネジメント。情報システム構築は規模の大小の違いはあるものの、大抵「プロジェクト」という単位でくくられて、スケジュール、進行具合を管理されている。この「プロジェクト」の責任者がプロジェクトマネジャーであり、プロジェクトマネジャーの仕事がプロジェクトマネジメントだ。
 プロジェクトマネジャーは各プロジェクトの責任者なので、プロジェクトのスケジュール、予算、プロジェクトメンバーの採用、進行、関連する他のプロジェクトとの調整、プロジェクト進行上発生する問題の洗い出しと解決などを行っている。プロジェクトを期限までに、求められる品質で完了させること、そのために必要な手段を、プロジェクトのメンバーを動員して講じること、このすべてがプロジェクトマネジャーの仕事になる。
 プロジェクトはほぼ100%、進行中に何かしらの問題に遭遇する。技術的な課題、うっかりミス、果ては地震といった天災まで、多種多様の問題を手がかりをたどりながら一つ一つクリアしてゆくのは、なかなか骨の折れる作業だ。
 思えば、私の留学生活もやはり問題を一つ一つクリアしてゆく10ヶ月間だった。
 1994年夏、私のホームステイ先であったアメリカNY州の町の第一印象は、「何もない。」だった。ホストファミリーの家に向かう車の窓からは、うねった丘の牧草地以外は夕暮れの空しか見えず、日本と同じように湿度の高い空気の中に、濃厚な牧場の匂いが満ちていた。ホストファミリーの家の向かいには、メノナイト(電気や自動車など現代的な技術を一切使わずに伝統的な暮らしを送っている人々)の農場があり、その次の家まで数キロ離れていた。スーパーマーケットまでは車で30分近くかかり、学校もバスで20分。「ここで、これからどんな生活をしてゆくのか。」覚悟とも諦めともつかない感覚を緊張感と共に味わいながら日暮れの時間を過ごしたのを覚えている。
 同じ州内とはいえ、摩天楼で有名なNYシティから330km離れた(東京と名古屋くらいの距離だ)田舎での生活は、当然のことながら様々な困惑に満ちていた。
 家で使えるお湯の量は限られていて、使い切ってしまうと、シャワーは予告なく突然水に変わる。友人の家や商店まであまりに遠いため、ホストファミリーの送迎がなければどこにも出かけてゆくことができない。横浜という街中で育った私には、IF留学は日本→アメリカ、そして都市→カントリーサイドという二重の転換によってよりハードルの高いものになっていた。
 もちろん、困惑はそれだけではなかった。学校が始まれば、当然授業に出なくてはならない。「アツシはどう思う?」「日本だと第二次世界大戦はどういう教え方をする?」「日本語って英語とどう違うか少し話してみて?」アメリカの高校の授業は基本的に教師と生徒、生徒同士のディスカッションで進む。英語の環境に慣れていなければ、即座に言いたいことがうまく出てこない。ディスカッションのキャッチボールに変な間が生まれる。授業でいつ回ってくるかわからない発言の機会にいつも緊張していた。
 学校からは宿題も出る。各教科ごとに「教科書を○○ページまで読んで内容を把握しておいてください。」「第2章と第3章を読んで明日のディスカッションに備えましょう。」とリーディングの宿題がポンポン出される。(先生達は教科書を読んでくるだけの宿題なんて、宿題のうちに入らないくらい簡単な課題だと思っている。おそらく留学生以外の生徒には本当に簡単な課題なのだろうけれど。)
 「友達を作るのに最適ですよ。」と当時のIFの先輩から教わって加わったフットボールチームも練習がハードで、ついてゆくのがやっとだった。私の2倍くらいの体重の同級生にタックルを仕掛けては、きれいに弾き飛ばされながら、「学校に溶け込むため。」と自分に言い聞かせていた。
 最初は毎日山積みの宿題を前にため息をつきながら、夜遅くまで教科書を辞書を引きつつ少しずつ読んでゆくしかなかった。フットボールの練習でくたくたになりつつも、宿題を終えてベッドに入る時間は毎晩午前2時近くだった。朝6時の起床は非常につらかったが、慣れるしかないと思い耐えた。
 リラックス手段として熱い風呂にも入りたかったが、湯は貴重なので、代わりに家の裏の湖(水は驚くほどきれいだった)で泳いで発散することにした。
 数週間たつうちに、辞書を使わずに読める単語が増えてきて、少しずつ教科書を読むスピードが上がってきた。また、フットボールのチームを通してできた仲間に宿題を教えてもらうように頼めるようになり、少し要領よく宿題を進める方法を聞いたりもした。寝る時間も夜中12時くらいまでには早めることができるようになった。
 教科書の内容がより理解できるようになると、授業での発言にも自信がついてくる。さらにもう数週間すると、不完全ながらも言いたいことが少しずつ言えるようになってきて、たとえば政治のクラスで、「表現の自由は大事だけど、選挙戦中のCMで流すようなネガティブキャンペーンとか、やりすぎだとはアメリカの人は思わないのかな?」などと、重要なトピックを提起できるまでディスカッションに参加できるようになってきた。
 留学中に私が抱えていた問題はこれまで書いたものに留まらない。人間関係や、生活習慣、テスト勉強などもっともっといろいろあったが、それらも10ヶ月の中でそれぞれ時間をかけながら親元を離れた環境の中で、周囲の協力を得ながらも、ひとつずつ解決していった。
 目の前の問題を対処したり、順応したりしながら乗り越えてゆく。今、まさに送っている社会人生活の原型がそのまま留学生活の中にあったように思う。決して諦めたり、ふてくされたりせず、ただ淡々と一つ一つの問題を解きほぐし、次の問題に対処してゆく。もちろん、社会人生活を送る上で、留学中に学んだ「英語」という言語が使えることも大きいけれど、それ以上に「ひとりででも、目の前の問題に対処し、結果についてあまり心配しすぎることをせず、自らのできる最善の努力を解決に向けてする。」という習慣が身についたことは、今の私につながる大事な経験であった。
 これから留学に行く皆さんも、大小さまざまな問題に直面しながら留学生活を送ることと思うが、その経験がきっとその後の生活に、心の余裕をもたらしてくれると信じている。「ああ、前にもこんなことがあったけど、乗り越えられたし今回もどうにかなるだろう。」と。どうか皆さん、困難に負けないすばらしい留学を。

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