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2018年05月号より

2005年度生 中丸智貴

東京大学大学院 情報理工学系研究科

言葉にできない経験

 正直なところ、寄り道を繰り返して未だに学生をしている自分にまともなことを書ける気はしない。しかしせっかくの機会なので、もう13年前になる留学を振り返ってみようと思う。
 留学先はミズーリ州のSheldonという小さな町。人口は500人。店といえばコーラとチョコレートくらいしか売っていないコンビニエンスストアと、個人経営のハンバーガショップ。町というより村という方が近い。通った高校は一学年5人から10人という規模。隣のWalmartがある大きな町(といっても人口8000人ほど)までは時速100マイルで走り続けて15分くらいだったと思う。留学前に「IF留学では小さい町に行くことが多い」と聞いていたので驚きは小さかったが、帰ってきて他のOB/OGに聞いてみても、そこまで小さい町に行っていた人はほとんどいなかった。
 ホストファミリーは5人家族で、幼稚園から小学生の子供が3人いた。近所に住んでいる、よく行き来する親戚の家にも子供が多かったので家の中はいつも賑やかだった。日本にいる間にその年代の子供と関わることはなかったので当初は「どう接したものか」と心配しいていたが、さすがアメリカ生まれアメリカ育ちの子供達、物怖じせず「遊ぼう、遊ぼう」と言ってくれるのでその心配は無意味だった。
 今思えば子供の相手をするのは良い英語の練習だったように思う。英語がわからない人がいるという概念がないのか、容赦なく同時に話しかけてくるし、こちらの英語が下手だと「全然わかんない!」と遠慮なく言ってくる。しばらくすれば問題なく意思疎通できるようにはなったが、10人近くの子供を代わる代わるおんぶして走ってあげる遊びだけは最後まで大変な思いをした。しかしその甲斐あってか、1歳ちょっとのまだほとんど喋れない子供が自分の名前を呼ぶようになった時は嬉しかった。
 上に書いた通りとても小さい町であるにも関わらず、同じ年に南米から留学してきた人が2人いた。南米と聞いてイメージする通りの陽気なエクアドル人とペルー人だった。自分はあまり南米気質ではないのだが、彼らとは特によく遊んだのを覚えている。校長先生の家の庭の池で釣りをしている時、どういう経緯か覚えていないが “外国人” の3人で池に飛び込んでメガネを失くしたこともあった。あの池にはまだメガネが沈んでいるのだろうか。
 こうして書き始めると、13年も前でもう全然覚えていないと思っていた留学生活も書ききれないほどいろいろ思い出せる。しかし他のOB/OGの方々が書いているようなかっこいいエピソード、人生を変えるような経験・出会いは残念ながらなかった。今博士課程での研究でも仕事でも使っているプログラミングという分野にも出会っていない。英語が人より少しできることで得をしていることもある気はするが、できなければできないで困らないようなことを今はしている。
 こう書くと「留学は無意味だった」という風に聞こえるかもしれない。しかし全くそんなことはない。ただ未だに「具体的にどう役に立っているのか」それをうまく説明できずにいる。積極性?確かに留学前よりは何でも取り組んでみようと思うようになった気がする。コミュニケーション能力?確かにどんな人でもなんとなくの会話はできるようになった気がする。でも自分が留学で得たものの全体を、ぴったりと言い表す言葉は未だ見つけられていない。とは言え、体験した自分にしか分からない何かがあるというのも悪くないだろう。きっと皆言葉にしきれない何かを掴んで帰ってきているのではないだろうか。
 ちなみに不可解に思った人向けに少し補足(言い訳)をしておくと、留学から13年経っているのに未だ学生をやっているというのには少し理由がある。大学2年目の頃に友人と会社を始め、3年ほど続けた後いろいろな事情から会社を解散、大学に戻り学部卒業、その後修士課程を経て今現在博士課程に在学している。まだまだ何も成し遂げていない身なのでこうして巻頭言を書くのは恥ずかしいが、今こうやって寄り道を繰り返しながらも、日々楽しく過ごせているのは高校での留学のおかげだろう。

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