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2019年04月号より

1980年度生 進藤 奈邦子

世界保健機関 シニアアドバイザー
MD, PhD, FRCPEdin

IF米国留学が開けてくれた「世界への扉」

 私が勤務する世界保健機関の本部はジュネーブにあります。国連本部やユニセフの本部はニューヨークにありますが、ジュネーブには世界保健機関(WHO)、国際労働機関(ILO)、世界気象機関(WMO)、世界貿易機関(WTO)などの本部を始め、70以上もの国際組織が集中しています。スイスアルプス、フレンチアルプス、そして地質年代ジュラ紀の名の起源であるジュラ山脈に囲まれ、青く輝くどこまでも透明なレマン湖を擁し、その湖岸に美しい街並みを展開しているのがジュネーブです。ご存知でしょうか、スイスには4つの公用語があり(ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語)、ジュネーブ、ローザンヌ、モントルーなどレマン湖畔の都市ではフランス語が公用語です。したがってWHOの本部ではフランス語と英語が公用語です。ジュネーブに着任した当時は挨拶程度のフランス語しかしゃべれませんでしたが、英語を克服した自信が後押ししてくれてフランス語も仕事で使えるほどに上達しました。仕事柄フランス語が公用語のアフリカ諸国に行くことが多いので避けては通れません。余談ですが、上には上がいます。私のIF留学同期の大場孝一さん(現在スイスのメジャー建築技術会社Sikaの事業本部長で、日瑞商工会議所のボードメンバー、チューリッヒ在住)は、英語のほかにドイツ語、スウェーデン語(スヴェンスカ)を巧みに操る超言語頭脳の持ち主です(ちなみに彼は理系でも最難関とされている早稲田大学理工学部建築科卒です)。IFの同期は留学後約40年が経過しようとしている、今も仲良くしているんですよ。
 さて、私の米国留学は人生におけるコペルニクス的転回でした。自分の中の自分を見つけることができた貴重な経験でした。私が配属されたのはニューヨーク州でも北の「アップステート ニューヨーク」。州都オーバニーに近い湖水地方、森林と渓谷で名をはせるワトキンズ・グレンやフィンガーレイクがあり、四季を通して美しい自然があふれていました。一昨年久しぶりに仲良しの友だちと、いつも夏の週末を過ごしたレイクハウスで再会しました。このレイクハウスで最後に過ごしたのはなんと35年前のことです。すでに孫がいる友だちもいて感慨深いものがありました。私の子どもたちもそれぞれ成長し、もう24歳の社会人と21歳の大学生です。子育てをしながらでも大好きな仕事を続けて来れたのは本当に幸せなことです。ホストペアレンツはフロリダにリタイアしていて、ホストブラザーたちはITと運輸関係の仕事をしています。みんな元気で昨年はフロリダで再開することができました。
 彼らに温かく支えられながら、驚異的なアメリカの就学環境で思う存分勉強できたことが、今の私を作っていると思います。勉強すればするほど、成績が上がれば上がるほど、どんどん機会が与えられました。留学したのは10か月でしたが、ジュニアに入学してシニアで卒業できました。一番苦労したのはアメリカンヒストリーでした。補習も受け、やっと単位をいただけました。私は理系でしたが米国史だけは必修だったので。一ページ読むのに辞書を何回も引いて、読んでも読んでもわからなくて本当に苦労しました。たった200年の歴史なのに!中国史は大好きで秦の始皇帝から歴代皇帝を空で全部言えた私ですが、米国史には(すごくつまらないこともあって)もまれました。スポーツの環境もドギモを抜かれました。壮大な敷地に野球場、トラックフィールド、アメフトとサッカー場がありました。プールはオリンピックサイズのインドア温水で冬の間PEの授業でカヌーの練習をし、春になったらみんなでカヌーを担いで渓流に行きました。得意のバレーボールでは身長160センチの私は一番チビでしたが、セッターをやらせてもらえましたので、高身長のアタッカーたちをふんだんに飛ばしてクイック攻撃させまくり、NY州チャンピオンに輝きました。黄色いスクールバスであちこち遠征し、勝ちまくって楽しかったです。QueenのWe Will Rock Youをバスのなかで足踏みしながら歌い、士気を高めて盛り上がりました。今でも体が熱くなる思い出です。
 さて後半の高校生活でシニアに飛び級した私は、物理、化学、数学で少人数のトップクラスに入ることができ、当時では稀だったコンピューターも与えられ、コーネル大学の授業も聴講することが許されました。「オナーパス」なる優等生特権を与えられ、授業中だろうが休み時間だろうが自由に図書館やラボ、先生のところに出入りできました。とある夕方、物理のクラスでいつも上位3人に入っていたC君がホストファミリーと行った量販店で黄色いハッピを着て働いていたのに出くわしました。彼のおうちはお金持ちで有名で、いつも高価なラルフローレンの洋服に身を固めていました。びっくりして、えー?どうして?と聞くと、うちの親父は大学は働いで自分の金で行きなさい、主義で、と。でも成績優秀だからスカラシップで行けるんじゃ?と切り返すと、大学は勉強したい優秀な学生がアメリカ全土と世界中から集まってくるから、ずっとスカラシップで乗り切れるかどうかわからない、だからなるべくお金貯めとかなくちゃ、という返事。がーん!ときました。大学というのは勉強したい人がバイトしてお金貯めてそれでやっと行けるところなのね?!日本の大学生は親のお金で勉強して?(遊んで?)いるのにね。そしてその話をクラスメートにしたらみんなも似たり寄ったりの状況で、彼らの覚悟が私にも乗り移ってモチベーションがめちゃくちゃ上がりました。学友たち、ありがとう!
 その後不治の病を患った弟のそばで過ごすため、米国での大学進学を諦めて卒業証書を手に日本に帰国、高校2年の2学期に復学して受験勉強に突入しました。建築学科が志望でしたが、弟との約束を果たすため医学部受験に切り替えました。医学部に無事入学、今度は夏休みごとに留学先を探し、米国医師資格試験、語学試験を受け、米国留学に備えました。大学の教授陣に大変お世話になり、素晴らしい紹介状をいただいて、ハーバードメディカルコンプレックスや英国のナイチンゲール創立のセントトーマス病院、歴史の息づくオックスフォード大学ラディクリフ病院で働けたのは素晴らしい経験になりました。大学病院だったので研究も臨床と両立して行い、論文もいくつも書くことができました。結婚、妊娠、出産とテニュアのキャリアには好条件ではありませんでしたが、素晴らしい恩師、指導者に恵まれ大好きな感染症の研究を続けることができ(夫曰く、ほとんどただ働き、叔母曰く、子育てしながら自分も育てなさい)国立感染症研究所にリサーチレジデントとして採用され、とんとん拍子に主任研究官まで昇級し時代の波に乗ってWHOに出向させていただきました。2002年のことです。
 WHOに赴任してからすぐに世界的な新興感染症である重症呼吸器症候群(SARS)、鳥インフルエンザ、エボラ出血熱、などなど、危険感染症のアウトブレークに立ち向かうことになりました。感染症とバイオセキュリティの知識、感染制御のトレーニング、ICU(集中治療室)で培った重症患者管理、論文執筆で鍛えた英文を書く力、全てが役に立っていつの間にかアウトブレーク調査の先発隊の常連になっていました。2005年には600倍ほどの難関を経て正規職員に採用され、外交官と医官両方のタイトルを持つ上級専門官のポジションを勝ち取ることができました。
 その後は管理職(マネジメント)のトレーニングを積み、管理官のポストを経て、今ではシニアアドバイザーとしてWHOの方向性やポリシーに関わる仕事をしています。山とスキーとアウトドアが大好きな私は、スイスの自然に囲まれて、家族、同僚に支えられながら自分と家族を犠牲にすることなく、大好きな仕事ができてこんなに幸せなことはありません。
 たった10か月のことでしたが、IF留学は私をここまで連れてきてくれました。皆さんにとっても、きっとこの経験は「夢の扉」になるでしょう。

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