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2013年4月号より

1991年度生 高島美穂

青山学院高等部よりペンシルベニア州に留学
上智大学比較文化学部比較文化学科卒業
TBSテレビ入社
報道局社会部、夕方のニュース番組などを経て現在ワシントン支局勤務

20年ぶりのアメリカ生活と高校留学

 建物の正面に向かって右側に小屋がある。重たい鉄の扉を押して中に入り記者証明書を提示し、係員にHi!と声をかけるとHi!とは返してくるが笑顔はない。アメリカ人はフレンドリーとはよく言われるが、ここで働く人は常にピリピリしている。手荷物を金属探知機にかけ問題ないとようやく敷地の奥への立ち入りを許される。会見場に向かうおよそ15メートルの歩道から視線を外に向けると、柵の向こうでプラカードを掲げている人たちの姿が目立つ。
ここは世界で一番有名な「家」、ホワイトハウスだ。
 ワシントン支局への異動は青天の霹靂だった。TBSに入社以来、確かに勤務年数のほとんどを報道局で過ごした。しかし新人配属の社会部で警視庁を担当したのを皮切りに、ニュース番組に異動になった際も取材したのは事件・事故が中心。政治、国際ニュースにはほとんどタッチしてこなかった。不安な気持ちを抱いたまま高校留学以来、およそ20年ぶりのアメリカ生活が始まった。
 私は高校に入ったら留学する。
 そういう暗黙の了解は随分前から両親との間であったように思う。というのも小学校の3年間を父親の仕事の都合でサンフランシスコで過ごした経験がベースにある。日本語と英語の違いすらよくわからない幼い時期に現地校に通い、気づいたら同級生の会話がわかるようになった。そして気づいたら英語で話していた。毎朝アメリカ国旗の前で直立して国歌を歌う。そんな典型的なアメリカの小学校生活にすんなり溶け込んだ。
 休みのたびに旅行もした。車のトランクに炊飯器を積み込み、家族でアメリカを縦断、横断した。ホテルで夜、ご飯を炊く横で夏休みの宿題をする。そして翌朝おにぎりを頬張り、ロードへ繰り出すのだ。グランドキャニオン、イエローストーンにナイアガラ。アメリカという国の広さをこの年齢にして体感する機会に恵まれたことは幸運だったと思う。
 当然ながら楽しい日々には終わりがある。父の駐在期間が終わり日本への帰国が決まった。帰国後、アメリカに帰りたいと繰り返す私に対し母は「大きくなったら今度は自分でいけばいいじゃない」と言い、それから数年。高校留学という選択肢にたどり着いたのは、自然な流れだった。
 留学前の私はどこか慢心があったと思う。入学した高校がエスカレーター式で、留学しても大学受験のことをさほど心配しなくてもよかったことなどもあるが、何より一度アメリカ生活を経験していて英語力に多少なりとも自信があったのが原因だったと思う。
 ペンシルベニア州ピッツバーグの空港でホストファミリーは待っていてくれた。他の留学生がそこから飛行機を乗り継ぐ中、私は家族の車に乗り込み20分で家に到着した。留学先としては異例の都会だ。教会の横に家はあった。ホストファーザーは牧師だった。
 高校は生徒数が1500人を超すマンモス校で初日に試練が訪れた。お昼の時間、カフェテリアに向かったのだが一緒にお昼を食べる相手がいない。トレイを片手に空いている場所に座ろうとすると、「そこは友達用にとってある席だから別を探して」と言われる。そういうことを何度か繰り返すうちに誰も使っていない端の席を見つけた。ようやく食事を口にしようとしたが食欲が全くわかない。なんでこんな惨めな思いをするのだろう。日本だったらたくさん友達がいるのに。涙を必死でこらえた。
できると思っていた英語力も早々に自信を打ち砕かれた。留学して早々に与えられた課題書がナサニエル・ホーソーンのスカーレットレター(緋文字)。17世紀にイギリスから移民してきた女性が姦通罪を犯した罰としてAという文字を刺繍した衣服をまとうように命じられ・・。アメリカ文学の代表作の1つなのだが、まず全ての行に知らない単語がある。辞書で必死に意味を調べていると、今度は話の筋が頭に入らない。しかも作品の題材である「キリスト教」をテーマに授業でディスカッションが進むのだが、「このエピソードはピューリタン社会の何に対するアンチテーゼなのか」と先生に当てられた日には完全にお手上げだった。
 ホストファミリーでも問題に突き当たった。1つ年下のホストシスターは、私に子供に話す時のようにゆっくりとした英語で話しかけてきた。しかし16歳の私はそんな気遣いをありがたいと思うどころか「普通に話して」と強がった。読書好きで少人数で落ち着いた時間を過ごすことを好んだ彼女に対し、留学する直前まで渋谷でわいわい騒いでいた私は性格的に水と油で、何かあるとすぐ衝突した。
唯一の救いはホストペアレントだった。彼らは、自分たちの娘と私がしょっちゅう喧嘩しているのを当然知っていたがどちらにも肩入れをしなかった。その都度どっちが悪いと理性的な対応をしてくれたのだ。私を外食に連れ出し色々と助言もしてくれた。もっと力を抜いて楽しみなさいと。Political geek(政治オタク)という言葉がある。ビールを飲みながら政治談義をするのが好きな人たちのことで、ホストファーザーも間違いなくその1人だった。牧師の彼はビールの代わりにダイエットコーラで満タンにしたグラスを持ってリビングに現れては、私に政治談義をふっかけてきた。私もそれが嫌いではなかった。
 何ヶ月経ってだろうか。私は高校生活を楽しんでいた。ピアノを弾くことを知った先生から合唱団の伴奏をやらないかと持ちかけられたことがきっかけだった。コンサートにむけ毎晩練習した後、輪になって食べたピザの味。慰問先の老人ホームで感謝の言葉をかけられた時の感動。何よりそうした経験を共有する友人に巡り会えたことが生活に大きな変化をもたらせた。カフェテリアではいつしか彼女たちと一緒にお昼を食べるのが当たり前になっていた。
 ワシントンで生活して1年4ヶ月。アメリカはどう動いているのか、それは日本にどう影響する可能性を含んでいるのかを取材し、日本にニュースを送っている。日本にいる時以上に日本人であることを自覚させられる日々なのは留学の時と一緒だ。取材先で「日本人としてはどう思う?日本政府はどう反応すると思う?」と逆質問される毎日だからだ。また典型的なアジア系の容姿が目立つのか。国際会議の場で「海外メディア」としてインタビューを申し込まれることも度々ある。
 先日、日本に馴染みの薄い国々のニュースを書くのはなかなか難しい、なんてフェイスブックに書いたら「そういう話、前から好きだったね」と即反応してきた友人がいた。どうやら私は以前、彼女に対し「国際ニュースを取材する記者になりたい」と語っていたらしい。自分ですら忘れていた一言をいまだに覚えていた友人は、20年前、私の隣でピザを食べていた合唱団の彼女だった。

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