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2010年5月号より

1981年度生 井上雅文

奈良女子大学文学部附属高等学校よりNew Mexico州に留学
京都大学大学院農学研究科博士課程林産工学専攻修了
京都大学木質科学研究所助手
東京大学助教授
内閣府総合科学技術会議上席政策調査官
現職:東京大学アジア生物資源環境研究センター准教授

私の留学は、中学生の頃、ジョントラボルタが主演した「グリース」という映画に登場するアメリカの華やかな高校生活への憧れから始まった。高校生留学の目的を英語力か文化力の向上に分けるならば……う~ん。私の場合はどちらでもなかったような気がする。
30年ほど前の今頃だろうか、IFから待ちわびていた留学先の通知が届いた。New Mexico州Lake Arthur。インターネットなんて無い時代、私は,早速、街の図書館へ自転車を飛ばし、分厚い地図帳でこの場所を調べた。検索欄でLake Arthurを引くと、地名の隣に3桁の数字があり、そのページを捲ってみてもアメリカではない。なんとそれは人口だった。実際のところ、想像以上の田舎であった。隣の家まで2マイル。合衆国平均よりは貧しい地域だったのだろう。ホストファミリーは国道沿いで雑貨屋を併設したガソリンスタンドを経営していて、その脇に置かれたトレーラーハウスでの生活が始まった。トレーラーハウスと言っても、今私が住む大学の官舎よりははるかに文化的だったような気がする。休日にはピックアップトラックの荷台に乗せられて、地域の産物であるチリ(唐辛子)の収穫に行く。赤く熟したものから収穫するため機械化が出来ないと教えられた。バケツいっぱい採ってトラックまで運ぶと、その場で25セントを貰えた。それはアルバイトと言うより、地域の子供達が全員参加する収穫季節の行事のようであった。当初は映画の世界への憧れと現実のギャップを埋めるのに少々の時間がかかったが、多くの留学経験者が語っておられるように、まさに貴重な経験が満載の日々であった。
半年ほど経った頃、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外のチャイナレイクという街に引っ越した。新しいホストファーザーは海軍キャプテンで基地の司令官。家の外にはプール、一晩中スプリンクラーを回して維持する芝生を犬が駆け回り、内にはプールテーブルが置いてあった。まさにビバリーヒルズ高校白書のような暮らしだった。ただ、不思議なことに、今となって鮮明に思い出すトピックスのほとんどは、ニューメキシコの片田舎の風景の中にある。

英会話上達のプロセス
あの当時、高校生の留学なんて一般的ではない時代、希望する者の多くは英語が好きで得意な方々だったのだろう。しかし、私はそうではなかった。ずいぶん苦労した記憶がある。現地で生活しながら、会話力を習得していく過程で、不思議な記憶があるので紹介しておこう。二週間ぐらいの周期で会話が楽になったり難しくなったりを繰り返すのである。
当初は相手が何を言っているのかサッパリ分からない。ただ、あらかじめ準備していた挨拶の定文とか簡単な作文はできるので、自分の思いを最低限の単語を連ねて辿々しく伝えることはできる。話せるが聞き取れない段階である。相手は私の会話力に気づき、それに合わせて簡単な単語を探しながらゆっくり話してくれるので徐々に聞き取れるようになる。英語が少し分かるようになってきたと嬉しくなる。相手の意図がほぼ理解できるようになると、自分からも少し複雑な内容を伝えたくなる。しかし、語彙が少なく、思うようには表現できない。話すことが難しいと感じる時期である。それでも徐々に慣れてきて話せるようになってくる。また発音も英語らしくなってくるのであろう。最近はよく喋れるようになってきたなと安堵する。大切な誤解である。ところが、こちらがある程度の内容をある程度のスピードで話すようになると、相手はそれに併せて当初の気遣いもなくなりベラベラ喋りだす。そうすると、やはり聞き取れない。何だか英語が下手になったとスランプに落ち込む。ただ、その頃には、何が分からないのかを聞き返すことができるようになっているので、それを繰り返すうちに理解できるようになっていく。会話が成立しているなと感じる瞬間である。それに併せて、より高度な内容を伝えようと苦しみ、それができるようになると、また聞き取れなくなる。話すことと聞くことの難しさを痛感しながら、それらの克服を繰り返し、上達していったような気がする。

多様性を理解することの難しさ
さて、私は今でも英会話にはコンプレックスを感じている。帰国後、元々苦手だった英語関係の職業を選択する希望はあまり無く、少しの迷いはあったが理系に進学した。その後、英語を話す機会はほとんど無く、博士学位を取得した30歳の頃には、英会話力はすっかり錆びついてしまっていた。最近では、毎月のように外国へ行く機会があり、重要な交渉を任されることもある。留学当時の会話力を維持していればと悔やんでいる。しかし、外国人との交渉では、会話力だけでは埋められない『何か』を感じることも多い。人々の着眼や発想の違いは、それぞれの地域、環境、教育などバックグラウンドによって様々であるが、これらはある程度の情報によって学ぶことができる。しかし、まだ何か足りない複雑な多様性が潜んでいるように思える。
右の絵を見て頂きたい。有名な錯視画である。普通に見ると友好な男女が微笑みあっている。ところで、机に置かれたこの絵は、対面する相手にはどのように見えているのだろうか。貴君にとって、このままの状態でそれを想像するのはきっと困難なことだろう。相手の立場から物事を見ることの重要性をよく耳にするが、それは実際にはそれ程簡単なことではない。さて、シートを上下逆さまにして絵を見て頂きたい。対面する者が見ていた絵が容易に見えてくるはずだ。対面する相手には全く反対の意味を表示していたのである。この絵のタイトルは「婚前婚後」と言うらしい。確かに、先入観を持たず柔軟な視点から相手を理解しようと努力することが多様性を理解するための第一歩である。しかし、私は、どんなに努力しても、自分の立ち位置からでは決して見えない『何か』が潜んでいる可能性を常に認識していることの方がもっと大切だと考えている。もちろん、これらは今の私が説明のために解釈したものであるが、10代の1年間、アメリカで過ごした経験によって、私の中に培われた『何か』であるような気がする。

留学先の決定通知に一喜一憂している諸君、これから選考試験に挑戦しようと頑張っている諸君。留学の動機や目的、得られる成果は、皆それぞれ。新しい世界を経験することによって、今は見えていない『何か』が見えてくるに違いない。そして、自分自身が見えてくる。

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