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2014年04月号より

1982年度生 天 野 一 朗

早稲田大学高等学院よりArizona州に留学
早稲田大学法学部卒業
在学中Iowa州Cornell Collegeへ留学
ゴールドマン・サックス証券株式会社勤務

Best Year of My Life

 ハーバード・ビジネス・スクール卒業生の就職人気ナンバーワンと言われ、今やアメリカ、ニューヨークのウォール街の投資銀行の中でも最高峰とされるゴールドマン・サックス証券会社の東京支店に私が早稲田大学を卒業して新卒で入社したのは、今からちょうど25年前の1989年4月。ちょうど日本ではバブルの絶頂期で、私が入社した1989年の12月には、日経平均株価は38,915円を記録し、日本の金融機関が世界を圧巻していた時期、そんな時に日本では全く無名だったゴールドマン・サックスに、ひょんな偶然が縁で入社しました。それ以来、デリバティブ(金融派生商品)の開発・マーケティングの仕事を担当し、主な顧客である大手都市銀行、生命・損害保険会社や年金基金向けに各種の金融商品・ソリューションを提供し続け、約10年前にマネージング・ディレクターという会社の上層部の役職に昇進、今年の4月には日本人の新卒では初めての勤続25周年を達成しました。けれども、もし30余年前にIFでアメリカへ留学した経験がなければ、厳しい職場で25年も頑張れなかっただろうし、そもそも外資系の会社になんて就職することも決してなかったことでしょう。
 高校2年生の時に、先輩がアメリカ留学をするのを知って、自分もしてみようかな?と思ったことがきっかけで、IFにお世話になることになりました。ただ、英語は不得意で、高校2年の1学期には赤点を取ったぐらいなので、アメリカに着いた時は英会話はほぼ不可能な状況でした。留学した先は、アリゾナ州の片田舎、州都のフェニックスから車で4時間の人口3000人足らずの小さな町。5人兄弟のホスト・ファミリーでしたが、上の3人の兄達は大学へ行っていて、家には3歳年下の弟と7歳年下の妹の2人が、両親とともに私を迎えてくれました。学校は一学年100人ぐらい。本当に田舎でのんびりとした所でした。
 学校ではもちろんのこと、町でも日本人どころか東洋人は私のみ。留学生は3人いましたが、残りの2人は南米からだったので、何処に行っても物珍しさで注目を得ていました。アメリカの大西部の田舎町に住む人たちにとって、日本なんて映画の世界にしか出てこないような国なので、それを逆手?にとって、こうなったら目立ちまくるしかない ! と、いろいろなことにチャレンジしました。英語力は全くなかったのですが、若かったし、度胸と行動力だけは人一倍あったのかもしれません。今思い返せば、向こう見ずで、恥も外聞もなく、よくやったなぁ、と自分でも感心しますが、当時は必死でした。
 ちょっとでも腕に覚えのあることには全てチャレンジしました。所詮、アメリカの田舎町です。日本の高校生の方が一般的にいろいろな経験をしているし、知識があるし、勉学でも進んでいるし、皆そんなに頑張らないから、留学生が努力して頑張れば、負けないのです。ちょっと本来の意味とはズレますが、「芸は身を助ける」のです。
 まず言葉が通じなくても友達ができるのが音楽とスポーツ。日本の高校で下手くそながらバンドでピアノを弾いていたので、転入して数日後の昼休みに音楽室へ行って突然ピアノでアメリカン・ロックの曲を弾き始めたら、あれよあれよという間にピアノの周りには人だかりができて、この曲は弾けるか、あの曲はどうか、とリクエストが殺到し、1か月後にはバンドを結成して、全校生徒の前で演奏していました。日本の高校ではバンドなんて珍しくもなかったですが、留学先のアメリカの高校では誰もやっておらず、大喝采でした。即席で集めたギターもドラムも下手くそでしたが。
 スポーツでは、持久力がちょっとあったので、クロス・カントリーという大自然(というか砂漠みたいな荒野)の中を2マイル(約3㎞)ほど走る競技のチームに入って、毎日放課後にチームで練習しました。とにかく走るだけなので、英語力も必要としない一方で、たまに皆で遠征してレースに出たので、すぐにチーム・メイトとは友達になれました。私は最初はたいしたことはなかったのですが、練習しているうちに慣れて、いつの間にかチームで2番手になり、地区大会で上位に入り、州の大会にも行けました。州大会では惨敗でしたが。
 あと、写真を撮ることは別に特技でもなんでもなかったのですが、いつもカメラを携えて写真を撮りまくっていたので、いつの間にか学校のアメフトチームの専属カメラマン?になり、アメフトのルールも知らなかったのに、チームと一緒にバスで遠征に付いて行って、試合の写真を撮っていました。今のように気軽にスマホで写真を撮ることなんてあり得なかった時代だったし、そもそもアメリカの田舎では高校生はカメラなんて持っていませんでした。おかげで、スポーツ音痴だった私もアメフトのチームメイト達や遠征に同行するチアリーダー達とも(言葉の壁はありましたが)仲良くなれました。例えば、初めての遠征バスの中で誰かの名前を漢字で書いてあげたら(単なる当て字ですが)、それが大ウケで、往復のバスではほぼ全員の名前を漢字で書いてあげる羽目になり、皆を喜ばすことができたうえに、皆の名前も早く覚えることもできました。漢字を書ける、という日本人にとっては当たり前のことも、ここへ来ると超難度の技になり得るわけで、それを使わない手はありません。
 極めつけは、後期は自分で勝手に組んだ時間割で授業に出る許可を取ったことでしょうか。留学先の高校では、他の多くのアメリカの高校と同様、1時限目から6時限目まで、期初に自分が選んだ科目(必修科目とそれ以外に選べる科目)を毎日受ける(つまり、毎日時間割が同じ)というシステムでした。前期が終わり、留学生活も残り半分となったところで、もっといろいろな科目(授業)を受けて、いろいろな先生や学年の生徒達と仲良くなりたいと思い、自分で日本の高校のような時間割を組んで、校長先生に直談判し、許可を得、本来ならば6つの種類の科目(授業)しか受けれないのに、唯一私だけ10種類の科目(授業)を受けていました。所詮アメリカの田舎です。日本の高校の方がレベルが高い科目もあったので、例えば、数学については、週5回ではなく、週2回にしてもらい、その代わりに別の科目を週3回とることで、(自宅での自習の時間は増えたものの)より多くの科目を取ることができました。今思えば、何故私だけあんなことをすることを許されたのかわかりませんが、「留学生」という特権を生かして?、なんでもチャレンジしてみました。(たしか、校長先生には、自分は留学生なので、いろいろな授業を受けて、いろいろなことを経験して、できるだけ多くの生徒と接する、という使命があるのです、とやらの言い訳で説得した記憶があります。)おかげで自分が転入した高校3年生(シニア)だけでなく、4学年全ての生徒達といろいろな授業を通じて知り合うことができました。
 そんなこんなで10か月の留学生活は、毎日忙しかったけれど、何にでもチャレンジして行動する日本からやってきた変わり者の私のことを、物珍しさも手伝って、学校では皆が最後まで興味を持ち続けてくれました。
 留学してから昨年でちょうど30年経ちましたが、卒業から10年毎に行われる同窓会には全て出席しただけでなく、下の学年の同窓会にも顔を出したりと、これまでに10数回も私の第2の故郷であるこのアリゾナ州の片田舎の町を訪れ、Facebook等を通じてホスト・ファミリーだけでなく多くの友人と今でも頻繁に連絡を取っており、彼らは自分の第2の家族、一生の友人達です。
 英語力のみならず、異国の人間とうまく付き合ってコミュニケーションする方法等を、自分が若いころに学べたからこそ、社会人になってからもゴールドマン・サックスという世界中の人種が集まっている外資系の会社で、皆とうまく調和しながら働くことができ、ここまで来れたのだと思います。2回の留学で、結果として学生生活が2年長くなってしまいましたが、一度も後悔したことはありません。日本中の高校生に留学を是非勧めます!

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